喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?

第十五話 喜劇の黄金時代!?

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1978年の自主映画「吉野家の映画丼」より。
左からター(ポール・スタンレー)、小林一三(ピーター・クリス)、
多田浩章(エース・フレーリー)、佐々木貴(ジーン・シモンズ)。
「ケンタッキー・フライド・ムービー」「下落合焼き鳥ムービー」に触発されて作った。
悲しい事に我々の「吉野家の映画丼」は、管理していた者がズサンなために
フィルムが現存しない・・・

 喜劇映画研究会の定例上映会に、僕は一般入場者として通うようになった。それまで上映会は大抵、喜劇研究会最年少メンバー三人組のうち小林・多田コンビが運営していて、平澤治は《要領よく欠席》を決め込んでいた。

 多田君は、父親が8mm映画マニアだったので、幼年期から機材の取り扱いには慣れているとか。それで、小林(受付)、多田(映写)という人員配置がほぼ定番となっていた。但し、時によっては小林君が独りですべてを運営している事もあった。

 客席では、缶ビール片手に最前列を陣取る喜劇研究会の吉村さん、もうひとり喜劇研究会メンバー(紅一点)の渡辺さんというエレガントな大学生のお姉さんが《必ず出席》となっていた。

 イイカゲンな事に「第●回定例上映会」と謳っておきながら、正確に何回目か小林君が忘れていて、吉村さんより「六回目となってるけど、八回目じゃない?」とツッ込まれたり、開演前に「本日はパンフレットがありません」、つまり用意できなかったという方便(?)がアナウンスされたりと・・・のどかな自主上映だったなぁ。

 

 僕は1979年に『マルクス捕物帖』だったか『ラブ・ハッピー』の上映会で、小林君から「先輩も手伝ってよ」と声をかけられ、3月よりスタッフ側に加わった。人見知りの激しい性格の僕は、必ずご来場の吉村さんと渡辺さんによる《喜劇研究会の勧誘》をあやふやに拒みつつ、喜劇映画研究会では映写とパンフレット作成を担当する。

 パンフレットについては、当時まだコピー機が文房具店か写真店にしかなく、白黒1枚30円くらいしたのと、縮小や両面なんて機能がなかったうえ、ワープロとかパソコンみたいな活字製造機(?)も存在しなかった故、相変わらず手書きで・・・役者の写真も自作イラストで誤魔化した!?

 なぜイラストかって? 写真を当時のコピー機の精度でキレイに複写(再現)するには、東宝東和などの発行したパンフレットや洋書から切り貼りして転用するしか方法がないため、貧乏なガキにはそんな真似はできない!だから自分でテキトーに描くしか方法がなかったんだ。そんなこんなでも、小林君とマック・セネット対ハル・ローチ論議(?)を楽しく展開させながら、テキトーに作業を進めていた。

 

 同じ頃、僕が運営する自主製作サークルも、喜劇研究会最年少トリオ(平澤君だけは《要領よく欠席》が多いので、正確には小林・多田コンビかもしれない)が加入した事でメチャメチャ賑やかになった。

 コチラは、僕が神と崇めるマック・セネットのキーストン社(Keystone Film Company)から名前を拝借して、ニュー・キーストン(New Keystone Film Company)と名乗っていた。

 何分にも馬鹿ガキが始めたサークルなので、映画会社の契約書みたいなつもりで氏名・住所・電話番号だけを書かせて《契約成立》だと、給料を払う訳でもなく仲間(出演希望者)を増やしていた。まるで悪質な宗教の勧誘じゃないか!日本セネット教団と名乗るべきだったか。

 ところがナゼかこの契約書が小林・多田コンビにウケて、彼らは続々と小・中学校時代の同級生を「コイツも契約しましょう」と連れて来る!? 僕の同級生、地元民、ターの同級生など名義上だけの《所属タレント》《契約監督》が増えて大所帯となった。最盛期には一体何人がニュー・キーストンのメンバーだったか主宰の僕ですらわからないくらいだ(多田君が僕の知らないうちに非人道的な手段で強制加入させた者もいたので)。そして、製作チームは僕の組、ター組、小林組、多田組の4班体制に分かれた。

 

 本稿を作成するにあたりニュー・キーストンの構成メンバーを思い返すと・・・ケラリーノ・サンドロヴィッチを筆頭に、今では番組ディレクターで活躍中の久保山努、東京大学や東京都市大学で講師を務め、自作が国立科学博物館の所蔵となっているマルチ・クリエイターで画家の北村武(現・喜多村武)、『有頂天』の初代ギタリスト=タボこと佐々木貴など、キョーレツな顔ぶれが揃っていた!以上、敬称略!御免!

 スゴイ人材を輩出したサークルみたいでしょ。でも、一方では社会問題となってメディアを騒がせた窃盗事件の主犯として、三ヶ月くらい拘置所で暮らした奴もいた。コイツはぜんぜん連絡が取れないのでイライラしていたら、ちょうど塀の中に収監されていたんだ(この窃盗事件は被害総額も大きく、今もって特定の業種に深刻な後遺症を残しているため、詳細は言及できない)。

 

 こんな調子でワイワイガヤガヤと学業そっちのけで楽しく過ごしていた。何をやっても面白くて、「喜劇」に対する情熱が溢れていた。

 だけど、1979年の秋ごろから喜劇研究会、喜劇映画研究会、ニュー・キーストンは自然消滅となってしまう。人が増えれば主張も多くなり、趣味での活動に各人の都合がつかなくなってくるのは当然とは気づいていなかった・・・

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1978年初夏の喜劇映画研究会パンフ用、僕の手書きイラスト。
小林君はパンフに採用しようと言っていたけど、我流なので僕が恥ずかしがって採用を見送った。
40年も経てば羞恥心も薄れるので、今さらの公開!?