喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?

第十八話 「有栖川パニック」と再始動

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左から新野敏也、小林一三、ニッポこと西村善和。
新生ニュー・キーストンの宣伝用に撮影。でも3人が共演する事はなかった・・・


 第十五話で書いたとおり、僕の主宰した(そして勝手に脱退した)ニュー・キーストンは、僕の班、ター班、小林班、多田班と、大まかに4つの製作チームが相互補完のようなカタチで活動していた。正確には、ターの班だけがどうにもこうにも前進できないので、3つの班が精力的に創作を行なっていたんだけどね。

 

 ターは(ここで詳しく言及しないが)両親ともに複雑な家系の出身だったので、ターが物心ついた頃には必然というべきか、かなりブッ飛んだ家庭環境となっていた。可哀想っちゃ可哀想な奴なんだけど、異常なほどターを溺愛する母親と、教条的に何でも金銭で解決可能と勘違いしている父親に育てられた経緯もあって、ターの性癖はとにかく常識外れ。優柔不断で薄志弱行、責任感というものは完璧に欠如していた。だから、ターの趣味やマイブームはすべて僕らのウケウリ(真似)から始まって、挫折すると(母親による僕らへの責任転嫁で)幕引きするのが常套となっていた。こんな調子だから、彼だけが映画を完成できない。作家性が強いとか、妥協を許さないとか高尚な理由で製作が進まない訳ではなく、彼は集中力を維持する事自体が困難なため、撮影がメチャメチャになるのは必至だったのだ。

 ターが演出(カメラマン兼任)だと、たったワンシーンでもそのポイントが画面に反映される事はない。一例を紹介すると、《二人の人物が手紙を見る》シーンでは、演技や役者配置の指示が一切なく、まずテキトーなカメラ位置からおもむろに《二人の人物が頭のテッペンから爪先までシッカリ写るような》ロング・ショットを撮る。まるで小学生が旅行先で顔の向いた方へシャッターを押したスナップ写真のごとき構図で、上手もヘタもあったもんじゃない。肝心の《手紙》すら、ちゃんと判別できないアングルなのだ。次の手順として《手紙》をクローズ・アップにするのだが、ターはテキトーに立っていた自分の位置から動かず、ズーム・レンズで出演者の手許を拡大して《手紙》を撮影するだけ。

 すると、こんなんで完成した映像はどうなるか・・・《挙動不審な人物二人が並んでいる》から唐突に《上下逆さ向きの紙片》が手ブレでガクガクのピンボケとして画面いっぱいに描写(?)されるのだ。斬新といえば、これ以上に超現実的で斬新な表現はなかろう!? いくら馬鹿ガキの寄り合い自主製作でも《二人の人物が手紙を見る》シーンだとは、心が読める霊能者だって意味を汲み取れまい。手法がまだ確立されていなかった19世紀末の映画創世期でも、ここまでプリミティブで稚拙な失敗はなかった筈だ!

 早朝や深夜から協力を頼まれていた僕や多田君、小林君がこのお粗末な仕上がりにクレームをつけると、いよいよターの母親が登場して「ターちゃんはこれでイイって言ってるんだから、アンタたちに責める権利はない」「アンタたちの頭がおかしい」と猛剣幕で僕らが叱られて、そして未完成のままター企画は終了となるのだ。

 ついでながら、ターは父親の成金趣味な性格から、機材だけは高額な物を買い揃えて貰ってた。なので、僕らが「カメラが泣いているゼ」とか「機材に技量が伴わない」なんちゅう罵声を浴びせると、ターはそのまんま母親に報告するもんだから、おママ様の怒りが熱核兵器と同等の破壊力で僕らに返ってきた!

 

 僕がニュー・キーストンを一方的に抜けた時、既に小林君も半脱退状態だった。しかし、後発の入会メンバーで溢れかえっていたので、こんなターでも年功序列(?)により次の代表者に就任して、多田君と二人でニュー・キーストンの組織再編に取り組んだ。まぁ、ニュー・キーストンが世田谷区の私立女子高の映研と提携関係になった(と、ター&多田コンビは思い込んでいた)情況やら、ターの所属する高校の映画部から部員の過半数が新メンバーとなってたりと、みんなから「ター」を「パー」と揶揄されようとも、彼なりの思惑があって発奮したようだった。

 それで、正確な日時はわからないけど、1979年5月くらいに『第一回ニュー・キーストン会議』が、世田谷区の代田区民センターの小会議室を借りて執り行われた。常識的には晴々しく新体制や今後の展望を決める話し合いになったと思うでしょ? でも、この時は参加者のほぼ全員が最初からニュー・キーストンを潰す方向でターを攻撃し、ついでに多田君まで責め立てられ、遂には「ニュー・キーストン解散宣言」が発令されてしまった。

 あとで多田君から「ターさんがこんなに情けない奴とは思わなかった」と聞かされた。

 

 僕が知る事情では、女子高の映研に貸した機材が壊され、謝罪の言葉もなく郵便小包で返却された事、女子高側から一方的に絶縁を通達された事、ターの高校の映研は実体がないのに派閥ができて分裂した事、謀反の首謀者が体臭のキツイ同級生だった事、映研内の反対勢力によってカメラと映写機が破壊された事など、おぞましい話が同時多発的に絡み合ったようだ。

 当初は機材の弁償について責任の所在で紛糾したみたいだけど、そもそもターは自分が所有する機材じゃなくて、トンデモナイ話で僕のモノを無断で貸し出していた・・・それで(僕の怒りを避けようと)またしてもター母を介入させたようで、ガキ同志の問題解決とは次元が異なる展開になったらしい。

 ターの信望や求心力が皆無なのはアプリオリだけど、奴のおっかねぇママまでしゃしゃり出ると、未来ある人類にとってはニュー・キーストンを捨てて別惑星に避難するか、残って破滅するしか選択肢がなくなっちゃった訳だ。もしニュー・キーストンに残留していたら、ター母の奴隷にされ、永久に強制労働を科せられる危険もあったろう。

 だけど、馬鹿ガキの付き合いってのは鳥アタマ並みで、数週間ほど経つとまた何事もなかったように遊び始める。クサレ縁というか性懲りもないというか、大人になる前の狭い交友範囲だから、結局はいとも簡単に国交正常化となる。但し、このニュー・キーストン解散を機に、僕らはターの不手際やママ登場に遭うと、「ターらしいや」という内輪ウケの流行語が連発されるようになった。

 

 蛇足ながら、もうひとつターのエピソードを。小林君が《父親に殴られた》事件で映画フィルムを買えなくなって、僕が渋谷の悪徳フィルム輸入業者Jから情報だけを得ていた時(買うカネがないもんで)、ターも僕らの真似を始め、百万円以上の現金を見せびらかしながら父親とアメリカへ行ったのだ。目的は、ブラックホーク社というアイオワ州にある古典映画専門のフィルム販売業者から、僕や小林君が羨むような作品をすべて買い占めるつもりだった。しかし、事前調査や準備のできないターと、成金趣味の鎧を纏った父親の知ったかぶりが見事に調和して、向かった先はまるでブラックホークと無縁のニューヨーク!コーディネーターまで雇って何とかブラックホークへ辿り着いたようだけど、本社での直販を断わられ、結果はまた「ターらしいや」となった。

 もし、ターがブラックホークからフィルムを買っていたら、小林君や僕はめぼしい作品を借りて喜劇映画研究会を続けたかもしれない。でも、ターの持ち物はいずれ廃棄される運命だったので、そのフィルムをアテにしていたら、喜劇映画研究会は復活していなかっただろう。それでまた思い出して「ターらしいや」と悔やんでいたに違いない。

 

 ニュー・キーストン解散の前後に、僕は大阪から来た古川ナントカという男と組んでA.O.W.という新団体(?)を立ち上げ、新作に取り組んでいた。だけど、出演者やスタッフがまるっきり足りないため、ニュー・キーストンからター、多田君、平澤君、キチハラ(キチガイ石原の略)、ダミ、ゲバフ、オス、島ちゃん、そして女子高の映研メンバーに応援を頼んでいた。

 それで1979年6月24日早朝、広尾の有栖川公園に《戦闘シーン》を撮影しようと集まった。この時は監督兼撮影担当の僕、助手に多田君、兵士役でターとキチハラという計四人がモデルガンや軍装品を並べていたんだ。そんな僕らの《重武装》を、傍らのベンチで競馬新聞を見ながらイヤホンでAMラジオ聴いているオッチャンが苦笑していたんだけど・・・長唄の練習をしているご老人たちに向けて多田君が機関銃を向けたら、どうも通報されたようで、 機動隊がドッサリ走って来て公園を封鎖し、我々は完全包囲されてしまった! 一番ビックリしたのは、競馬新聞のオッチャンはラジオではなく警察無線を聴いていたのであって、道楽者のオッチャンにカモフラージュした私服刑事だったのだ! それで競馬新聞を捨てるやピストル抜いて機動隊を指揮しているじゃないか!  実はこの日、大平首相(当時)が近代日本の威信を賭けた戦後初となる東京サミット(先進国首脳会議)を開催準備中だった。僕らはあっさり武装解除され投降、機動隊の前線基地まで連行されて簡単な取り調べを受けた後、四人それぞれが警察官に両脇を挟まれて、到着したパトカー四台に分乗で麻布警察署へ連行された。

 

 警察で激しい拷問を受けたり拘留されたりは当然なく、担当の刑事さんが笑いながら「君たちの創作は応援するけど、時期を考えて行動しなさい」「通報されて本庁から出動要請されちゃあ、我々も行動しない訳にはいかんから」と諭されると、簡単な始末書を責任者の僕が書くだけで許してくれた。因みに、身柄の引き取り人として僕の母親が警察署に来たんだけど、頭ン中がパッパラパ~だけあって黄色いミニのワンピースにピンヒール履いて嬉々としていた。警察官から「お姉さまですか?」と訊かれ、「いえ、母です」と自慢げに答えていたので、これが一番恥ずかしかった・・・

 とにかくこの事件は僕を知る友人たちに尾ヒレが付いて広まり、『有栖川パニック』と呼ばれる伝説になって、しばらく撮影を中断するハメになった。

 

 それで計画が狂った僕は、演劇やバンドに興味が移りつつ疎遠となっていた小林君へダメ元で電話をすると、いきなり久々に会おうという話になり、待ち合わせの渋谷区円山町にある映画好きの溜まり場(喫茶店)へ向かった。

 数か月ぶりに再会する小林君は、《血まみれエプロン着用のカーネル・サンダースが斧と首のない鶏を振りかざしている》スプラッター柄の白いTシャツで颯爽と現われた。

 「多田から聞いたんスけど、先輩も色々あったようで」

 「僕は映画に情熱を失った訳じゃなく、ちょっと事情があってフィルムを集めたり、映画を作ったりができなくなったんです」と切り出してきた。

 その流れでターの失態からニュー・キーストンが消滅した事や、僕が新しく組んだ古川という奴が年上なのにまるで頼りないなんてウダウダ話していると、小林君が・・・

 「小学校の時の同級生でニッポっていうのがいるんですけど、とにかくスゴイ運動神経で面白い奴ですから、一度会ってみませんか?」

 ・・・と、提案してきた。それで小林君が喫茶店の公衆電話からニッポ氏宅へ連絡すると、いきなり彼の住む学芸大学駅へ向かう展開となった。

 駅前のハンバーガー屋で小林君、ニッポ、僕の三人で話すうち、ニュー・キーストンを再結成しようという結論に達した。夏の午後で、陽が傾きかけてもクソ暑い日だったのを覚えている。ハンバーガー屋のガンガンに効いたクーラーと、ニュー・キーストン再興の夢物語から、僕の心の中には虹が差していた。

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左より新野敏也、小林一三、西村善和(ニッポ)。