喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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第二二話 生きろ!生き続けろ!

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「誰が為に金は有る」1980年 NEW KEYSTONE作品


 最高の相棒を亡くした事で、僕は二週間ほど茫然自失となっていた。

 ニッポの葬儀はカトリック三軒茶屋教会で執り行われ、僕らニュー・キーストンの馬鹿ガキ軍団も神妙な面持ちで参列した。でも、このお馴染みの顔ぶれからはニッポだけが欠席しているように思えて、やはり彼が逝ってしまったという現実が信じられない。この場は何の儀式だろうという感覚だった。

 青山斎場へ移動して、ニッポの拾骨にも立ち合せて頂いたけど、あまりに変わり果てた彼の姿から、余計に状況が理解できなくなった。冷静になろうと努めると、悲しいとか辛いという感情に加えて、僕らの夢まで消えてしまったように思えてきた。もう、この先は何もない…何もできない…。

 ニッポが逝ってから、こんな感覚で数日間もがいていたところ、(ニッポが荼毘に付されている間の待合室で)ニッポのお母様が気丈に僕らを気遣って「あなた方は若いんだから、善和の分まで夢を叶えるように頑張って!」と、ご自身の深い悲しみを超えて、メソメソしている僕らを励ましてくれた言葉が徐々に心の底から浮き上がってきた。

 そうだ!「後悔しないように生き抜かねば!」という決心がようやく固まった。すると思い出した!急いでやらねばならぬ事がドッサリあるじゃないか!

 かくして1981年3月上旬、ニッポとの約束を果たすべく、『誰が為に金は有る』をとにかくコンクール等へ出品する(=公開する)方向で仲間と協議を始めた。

 撮影できなかったオープニングのシークエンス(ニッポのコンサート)は、たまたま僕がニッポからプライベートで頼まれて撮った『夢法師ファースト・コンサート』という8ミリ・フィルムを流用…と、ここで書くのはいとも簡単だけど、実はフィルムってビデオみたいに《気軽にダビング》なんて調子で複製できない(フィルムの複製は現像所の作業で、とても高額なのだ)。やむを得ず『夢法師ファースト・コンサート』フィルムから必要なカットを1コマずつ8ミリ・カメラで再撮影(=スクリーンに投射した映像を写真の複写みたいな要領でコマ撮り)、そして同じく未撮影となってしまったニッポのアップは、「ポスターの写真」という解釈で誤魔化し、ストーリーを組み上げた。

 「誤魔化した」という言葉は使いたくないけど、事実だから仕方ない。映画の文法からすれば稚拙で粗雑、場面展開に無理があり、カット割りは当然メチャメチャになるけど、この時は《カネもない、技術もない、方法もない、主役もいない》の情況で強行突破しなきゃならん訳だ。しからば、当初のストーリー案を通す以上、「誤魔化す」しか方法はなかった。

 こうして何とかカタチだけ整えたつもりの『誰が為に金は有る』を、所属する自主上映団体『パーセント』の第三回上映会と、喧嘩別れで飛び出した『企画者集団ホヘト上映会』(=平身低頭に一度限りの再加入を頼んだ)にて公開、そしてPFF(=オフシアターシネマ'81=ぴあフィルムフェスティバル’82)、’81富士フィルム8ミリコンテスト、’81リール国際喜劇映画祭(フランス)へ出品してみた。

 これは言い訳に思えるけど、当時、いずれの上映や出品に際して「本作は事情により未完成です。でも、喜劇に想いを寄せる我々の意気込みだけは感じて下さい」みたいな青臭い作者コメントを付けていた…まぁ、今の僕だと、こんな同情を買うつもりの言葉もなく出展するだろうけど、やはり若かったんだなぁ。

 さて結果は…PFFが553作品の応募中、最終選考へ到る44作品に絞られるところまでは躍進したけど、審査員の大林宣彦監督は「才能が浪費されているようで残念だ。もう1度自分と自分の映画とを見つめ直して欲しい」、大森一樹監督は「記憶には残るけど(優秀作の上映に)薦める訳ではない」とコメントして、優勝戦線から外されてしまった。

 富士フィルム8ミリコンテストはかろうじて学生奨励賞を獲得(でもPFFと同時に上位進出は異例らしい)、フランスのリール国際映画祭は「何と素晴らしいジョーク! しかし神を冒瀆するのはイカン」みたいな評価で五人の審査員中、三人からマイナス評価を付けられてしまった。現実は厳しく、ニッポへ吉報を伝えられなかったのは悔しかったけど、まぁ、馬鹿ガキが初めて正式なコンクールに出品したのだから、大健闘だと自己満足するしかなかろう。

 あと、ついでに記すと、富士フィルム8ミリコンテストはフジカラーが主催だったので、僕の白黒映画『誰が為に金は有る』が入選した事によって、翌年からは募集要項に「カラー作品に限る」との条件が明記されたんだ!

 富士フィルム側にしてみれば、モノクロ・フィルムを生産中止にして久しく、リバーサル・フィルムの色再現性をウリにコダックや小西六(サクラカラー)と覇権を競っていた時だし、同時録音のできるカメラも大々的にセールスしていたから、僕の劣化したモノクロ・フィルム使用の無声映画オマージュなんてのが現われた事は、ゾンビに襲われた感覚だろうね。

 これまた蛇足ながら、本稿を作成するにあたって古い資料を調べてみたら、PFFはスカラシップ(賞)を創設する前では最多の応募作品数となっていた。しかも、大衆演劇研究家の原健太郎氏が在籍していた騒動舎や、山崎幹夫、岩井俊二、太田達也(敬称略で失礼!)、後年にCMディレクターとなった著名人も参戦していたじゃないか!こりゃまたビックリ!!

 さらに今回の調査で僕が個人的に仰天したのは、この時の優秀作品(最終選考作品)の製作者が、小口詩子さん、坂口一直さん、飯島修司さんという今や映像業界の有名人、若手の指導者ではないか! 何と数十年を経てから喜劇映画研究会が色々とお世話になっている人たちだ! 近年になってから互いの過去を知らないまま偶然に知り合ったとはいえ、今日の今日まで気づかずに失礼しました。この場を借りてお詫び申し上げます!

 さてさて本題に戻ると、このように『誰が為に金は有る』を世に送り出したつもりだけど、ニッポが夭折した事での寂寥感は埋めがたく、《喜劇を実践躬行で研究する》つもりの勢いは半減していた。つまり、自分で演じたりギャグを考えたりの実技演習は、ほとほと諦めるしかないと決めつけていた。

 おまけに笑い話となるけど、ちょうど当ブログ【番外編 怪談 其の二】にある通り、各コンクールの結果が出た頃の僕は肋膜炎に罹ってしまった。傍から見れば心身共にブッ壊れたチンピラだったので、ニッポのお母様より賜った言葉が脊髄を貫いてはいるけど、カラダは療養中で動けない&アタマは智恵が足らず動かないという状態で自分が情けない!これじゃ何もできん!暗澹たる気持ちで、ただダラダラと過ごしていた。

 こんな時に悪徳フィルム輸入業Jへ購入予約していたハロルド・ロイドの『落胆無用』『豪勇ロイド』『ドクター・ジャック』『巨人征服』『猛進ロイド』『人気者』『田吾作ロイド一番槍』『スピーディ』『足が第一』、ラリー・シモン短編などが続々と到着!!!短期間で数十万円の支払いとなって、今度はイキナリ病を押して、道路工事の警備員などで日銭を稼ぐハメになった。三週間以上も病床に伏していたから、太陽の下にツッ立って大声出すのはさすがに堪えたね。

 まるで《趣味で生活が破綻したガキ》だけど、ここまでの状況に陥ると、不思議な事に余裕をかましている時より作品が有り難く鑑賞できる。また、苦労はしても個人所有できたからこそ、ジックリとフィルムの1コマまで分析できる。するとボロ雑巾がタップリ水分を吸い込み、汚れが拭き取れるようになったみたいに、得る質量と効能だけは増えた気もしてきた。だから、おそらくこの時期こそ(現在の)喜劇映画研究会の礎がほとんど形成されたように思える。

 そこへ(どういう経緯か忘れたけれど)、評論家の紀田順一郎氏が主催する『フィルム・コレクター連盟』というサークルから、「貴殿も参加しないか?」というお誘いが届いた。

 『フィルム・コレクター連盟』とは、映画フィルム(自主製作と違法ポルノを除く)の個人所有者による全国的な交流会で、インターネットのない時代なので文通を主軸に(=会員間の情報交換)活動しているアマチュア・サークルだった。しかし、《文通が主軸》といっても、現代の視点から考えたって超アンビリバボーで革新的なネットワークを誇り、紀田氏を中心とする主要メンバーが海外のコレクター、販売業者、アーカイブとコンタクトして、その実況報告を毎月発行の会報に載せていた!

 インターネットどころか、国際電話も簡単にできない時代での活動だから恐れ入る!まだソビエト連邦なんてコワイ国が幅を利かせていた時代なのに、東欧諸国と情報交換している会員も在籍していたんだから!とてもじゃないけど僕みたいなチンピラの馬鹿ガキにとっては憧憬の念だけで、同門の縁には程遠い雲上のサークルだと感じた(因みに、小林君や原健太郎氏の所属していた喜劇研究会に対しても、当初は同様の印象を抱いていた)。

 この『フィルム・コレクター連盟』については、小林君からの情報じゃないし、悪徳フィルム輸入業Jは「オレは奴らと絶縁した」と、自分が嫌われたクセに言い訳をしていたから、どこでどう僕が接触したのかは思い出せない。でも、とにかく末席に加えて貰えるだけでも光栄とばかりに、早々に入会したのだけは覚えている。

 「喜劇」を研究しようと思って自主製作に到り、仲間とモメたり、機動隊に連行されたり、相棒が亡くなったりと紆余曲折があったけど、ようやくマック・セネット対ハル・ローチとかスラップスティック論とか、僕なりにジックリ「喜劇」を考える機会が巡ってきたように感じた。

 ところがどっこい、スンナリ前進できず、いかにも喜劇的な展開が待ち受けているんだから堪らない。『フィルム・コレクター連盟』では、何にでもヤマとオチがあるという事を学んだ。