喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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第十話 映画部に恐るべき新入生

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大阪万博の広報新聞『SUNDAY EXPO』昭和43年(1968年)2月4日号、
せんい館はまだ日本繊維館という名称で準備が行なわれていたような内容…祖父が執筆した記事。


 喜劇を追求したい!しかし情報がない!マック・セネットとハル・ローチの創作スタイルの違いを解明したい、といくら力んでも便意しか感じない!

 

 そんなクソガキが次に始めたのは、近所の島ちゃんやターと自主製作で喜劇映画を作って実践で何かを摑もうという、無知だからこその安直な発想だった。単なるマスターベーションといった方が間違いなかろう。

 知識がないからギャグも内輪ウケっぽく、これまで見た喜劇の模倣でしかないうえ、予算的にも(フィルム代と現像代だけ)物理的にも(カー・チェイスや水着美人なんか不可能)制約が多過ぎるので、当然ながら何も得るものはなかった(ずっと後年になって悟った)。

 当時で最もガックリきたのは、母方の祖父が戦時中に日本放送協会(現・NHK)の特派員としてラジオで時局を語り、戦後は大阪でテレビ局の立ち上げに参画(これは最近になってわかった!大阪テレビという局で朝日放送に吸収合併されている)、テレビ黎明期には広告代理店の役員となって大企業のCMを製作(自ら主演)し、後年には大阪万博せんい館のゼネラル・プロデューサーとなった「映像制作のプロ」という肩書きを持つ人物だったので、僕らの自主映画に感想を求めたところ、「馬鹿な真似はやめなさい!」と一言で片付けられた事だった。

 このジーサマは、僕とキートンの話で盛り上がった唯一の親族なんだけど、やはり見る目はプロなりに厳しかった訳だ。

 

 やがて高校に進学した僕は、クラブ活動に映画部があったので、即決で入った。説明会では女子も含めて新入生が大勢いた筈なんだけど、翌日の部活開始からは僕と鈴木康則と内田眞人という野郎三人だけ!鈴木君はモンティ・パイソンとプロレスが大好きな製作志向の巨漢で、内田君はニヒルな論客というカンジのスレンダーな男だった。 

 その内田君は、のちに作品社という出版社の名編集長として業界の有名人になる。僕は偶然、35年後に『喜劇映画を発明した男 ~帝王マック・セネット、自らを語る~』の企画で再会するけど、やはり当時はセネット対ローチなんて話ができる雰囲気ではなかった。あの頃の彼は、ゴダールとかパゾリーニを語り、自らの喋り方を「比喩的表現」と称する謎の学生だったんだ。

 僕たち一年生トリオと、ガラの悪い二年生(総員が何人かは不明)、そして三年生はゼロの所帯で、映画にはまったく興味のない英語教師が名目上の顧問を務めていた。部長は若林清一さんという、優しくて人が良く、笑い上戸な小デブの先輩で、僕はスグに仲良くなったけど、この人は鑑賞が中心で製作志望ではなかった。おまけに荒川区の暴走族に所属していたので、やっぱりセネット対ローチとか無声映画がどうのこうのなんて話はできなかった。 

 でも、僕の趣味嗜好をかなり気にかけてくれていた(卒業後十年以上経ってから、若林さんは滞在先のニューヨークで偶然に僕の幼なじみターと知り合って、いきなり国際電話をかけてウルウルしていた!嬉しかったなぁ!)

 

 こんな「映画部」は翌年に学校の方針で「映画同好会」へ降格させられる。と同時に、いつの間にか僕が部長(会長?)にされていた。いきなり顧問から職員室に呼ばれて、「オマエが今年は部長だ」と告げられたのだ!そして同年に廃部となった少林寺拳法部、合気道部、射撃部、自転車部から続々と同学年の流れ者が集まり、「映画は見るものであって、自ら作るものではない」と屁理屈をこねる生意気な新入生も多数合流、トンデモナイ人数となった。追い討ちをかけるように女子部員はゼロ!ここは虚無感だけの砂漠地帯だ!

 むさ苦しい奴らが溜まれば、当然ながらセネット対ローチなんて話は、謎の古代文明か少数民族の方言くらいの扱いとなる。ましてや反抗期の多感な小僧ばかりだから、会話のほとんどがエマニエル夫人とか、ハリウッドの金髪碧眼グラマーかピンク・レディーかキャンディーズに偏ってくる。

 瞬く間にカオスへと変貌を遂げた映画同好会では、僕と鈴木君(その同級生チーム)だけが自主製作を行なっていた。だけど、僕の製作班は、ターや島ちゃんやゲバフやオスという、魑魅魍魎みたいなアダ名を誇る古くからの地元民たちで、依然として彼らとクダラナイ映画で『無声映画の研究ごっこ』に高じていた。さらに付け加えると、無声映画期のコメディアンくらい身体能力を高める腹積もりもあって、僕は映画同好会の部長ながらも空手道部へ電撃移籍した・・・(ここでは突き蹴りの技術よりも、忍耐と礼儀を師範から学んだ事が一番の収穫だと、後年になってしみじみ感じた)。

 因みに、この時に直接指導して下さった師範とは、2020年の東京オリンピックでKARATEを正式種目とするべく奮闘した、全日本空手道連盟の日下修次事務局長だ。

 

 と、セネット対ローチの話題を無視される以上に軌道がズレてしまったけど、空手の稽古があまりに過酷だったため、コメディ病が再発しないで三年生に進級した時、映画同好会には小林一三という新入生が入ってきた。そして彼と中学の同級生だったという、二人の男子も同時に入部してきた。

 彼ら三人の自己紹介は口を揃えて「中学で自主製作をしていた」。そして映画同好会で作ったモノを見せろとなれなれしくせがむので、鈴木君の作品が部室にないもんだから、僕の『無声映画の研究ごっこ』を仕方なく上映した。  

 この時の僕は、どうせ古典映画なんか君らの趣味ではなかろう、という気持ちで映写機の横に座っていたのだ。

 すると小林君が「素晴らしい!」、続けて「ハロルド・ロイドの影響を受けたのですね?」みたいな事を訊いてきたと記憶するけど、僕にとって意外よりもギョッとなる言葉で追撃してきた!

「僕も先輩の映画製作グループに入れて下さい」

「僕ら三人は、ハナ肇が顧問の喜劇研究会に所属しているんです」

 

 コイツら一体、何者なんだ!!!

 

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1969年3月20日(木)の日本繊維館協力会ミーティング
中央で居眠りしている人物が僕のジーサン、画面左が横尾忠則氏!

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僕のジーサンが撮った『せんい館の制作ミーティング』。
中央のサングラス男が前衛的なマルチ映像「アコ」の作家・松本俊夫氏、
その隣でうつむき加減のお兄さんが横尾忠則氏!