喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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第十六話 キゲキの終焉

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喜劇研究会最年少トリオがニュー・キーストン加入から
最初の《配給作品》として完成したのが
多田浩章による007のパロディ(?)だった。

 月並みな言葉を並べると16歳~18歳は「大人への入り口」「思春期の曲がり角」「多感な年頃」で、ちょうどこの馬齢に喜劇映画研究会とニュー・キーストンは蠢動し、現状を認識できないうちに、あっさり自然消滅へと向かってしまった。

 

 正確な日付けが今となってはわからなくなっちゃったけど、1978年9月頃に、小林君の発案で『喜劇映画研究会特別上映会』という、僕と小林・多田コンビの自主製作映画の一般公開(有料上映)が行なわれた。あ、「~を行なった」が正しい表現だね。

 ガキ共の稚拙な映画をカネ取って見せるという構想もスゲー大胆だけど、とにかく一度やるだけやってみようとなった訳だ。

 この時、僕ら自主製作グループの名称で『ニュー・キーストン上映会』と謳わなかったのは小林君の策略で、既に常連さんから支持を得ている『喜劇映画研究会定例上映会』の番外編として企画すれば、少しは集客率が上がるだろうとのズルい目算だったのだ。

 あろう事か、その狙いが当たって、通常の喜劇映画研究会より客席が埋まっているのでビックラこいた!まぁ、高校の映画同好会の仲間、小林・多田コンビの同級生、彼らの中学時代の友人、僕の同級生、喜劇研究会の方々が応援に駆けつけてくれた事情もあるけど・・・明らかに身内ではないお客様までご来場されているではないか!

 僕は初対面の人へ幼稚な自作を有料披露するという重責を、開演前にしてようやく悟った状態なので、「トンデモナイ場の当事者になってしまった」と震えが止まらなくなった!?

 

 終演後に喜劇研究会の吉村さん、渡辺嬢、最年長メンバーの南波さん、騒動舎の怪男児日の丸さんからお世辞のようなカンジで話しかけられたけど、自分の「喜劇の研究ごっこ」を話題にされるのが恥ずかしくて終始シドロモドロ、きっと愛想のないクソガキと思われた事だろう。

 こんな調子で「遂に内輪ウケ映画を公に曝しちゃった」程度に照れていたところ、いきなり喜劇研究会の吉村さんが自分の貯金から「優勝賞金10万円」を捻出して、「喜劇研究会主催による自主製作映画コンクールの開催」構想をブチ上げた!「だから、あなたもゼヒ出品しなさい」と!

 吉村さんは、単に僕らのクダラナイ自主上映会を盛り立ててくれるつもりの冗談で「コンクール」と口走ったのだろうと思っていたら、数日後に何と、情報誌「ぴあ」「シティロード」へ本気の公募広告を載せたのだ!

 この時の吉村さんは29歳の会社員、でも喜劇研究会の要職にあらず。会長と幹事は《伝統的な系譜に位置する「笑い」の研究》をテーマに掲げる大学生なので、会の名を冠してのアマチュア・コンクールは意見が割れたようである。

 追い討ちをかけるように、締め切りを過ぎても応募作はゼロ!僕らのニュー・キーストンや、原健太郎さんの所属する騒動舎が作った映画も応募しなかったのだ(僕らの場合は、「仮にも身内が出品するのはいかがなもんか」という奇特な意見があったからだけど)。

 このエントリーなしの結果に対して、吉村さんは喜劇研究会へ誠意を示すつもりだったのか、小林・多田コンビの『けだもの組合 史上最低の珍作戦』という作品に賞金を与えようと提案したようだ。しかし、小林君らは「応募してないし・・・」「吉村さんの貯金を受け取る訳にもいかないし・・・」「それこそ内輪だし・・・」との理由で固辞した。

 

 コンクールの失敗が直接の原因ではないだろうけど、入賞発表(予定日)を境に喜劇研究会は定例会合を「次回以降は未定」とだけ告げて、正式な解散宣言もないまま1978年の冬を前にフェード・アウトとなってしまった。おそらく発行日が11月1日となる『喜劇新聞 第8号』の作成が、活動最期となったようだ。

 喜劇研究会最後の会員となったターから、その当時に聞いた様子では・・・

 《会長はちょうど就活中》

 《定期会合の喫茶店にウケ狙いで弁当やサンドウィッチを持参して、コーヒーすら注文しない横暴な年長者がいる》

 《出席だけするけど終始無言、実働にも非協力的な年少者がいる》

 《成果や実績を少しでも残そうと情熱を傾ける人だけが頑張っている》との事だった。まぁ、他の会員からすればターだってクソの役にも立たない奴だろうけど・・・

 ターの話が事実なら、こんな怪獣と幽霊とアスリートのバトルロイヤルに自主製作のコンクール空転まで・・・卒業や就職を控える忙しい大学生にとって、世代も文化も錯綜する異民族を束ねるのは、猛烈なカロリー消費だったに違いない。

 僕を震撼させた「ハナ肇が顧問の喜劇研究会」が、こうもあっさり消えてしまうとは。小林君らは動揺するより、ナゼ?ってなカンジだった。

 

 それが年も開けての1979年、今度は小林君の「喜劇映画研究会」もイキナリ消滅してしまった!

 理由はずっと後年になって判明するけど、小林君の《謎の資金源》が遮断された事が原因だったらしい・・・この件は、ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏が父親に殴られた話として度々紹介しているので、ここでは割愛する!? なので、もっと詳しく知りたい方は、直接ケラリーノ・サンドロヴィッチ氏に訊いて殴られて下さい!

 

 記録がないのでもうわからないけど、喜劇映画研究会は恵比寿のシネプラザ・スペース50での自主企画を打ち切った後、池袋の文芸坐(旧)だったか、西武百貨店(西武美術館)に併設されていたスタジオ200だったか、マック・セネットやバスター・キートンの企画上映に小林君がフィルムを提供したのが最後の活動・・・そして完全に仮死状態へ陥った。

 ついでの話だけど、1980年代前半に小林君や僕とは面識のない第三者が「喜劇映画研究会」を名乗って古典映画の自主上映を行なっていた。何者だろうか??? とりあえず本家本元の小林流喜劇映画研究会は、1979年に幕引きとなったのだ。

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喜劇映画研究会が休眠前に作った、最後のパンフレット。僕と小林君の共作。

 

 それからの小林君は自然気胸で入院、「人間カラオケ」で一大ブームを巻き起こしている劇団『少年探偵団劇場』のオーディションに同級生と応募して合格(正式加入)、原健太郎さんら騒動舎OBが設立した劇団『笑ボート』に参画、さらには自らがバンド『ジ・アイヌ』(のちの『有頂天』佐々木貴がギター担当)を結成して香港映画『Mr.Boo!』の主題歌をカバーしたり等、古典映画への関心がやや薄れて、演劇や音楽に興味が傾いていたように思えた。彼がニュー・キーストンも半脱退状態となったので、僕はマック・セネット対ハル・ローチみたいな話が気軽にできる相手を失ってしまった。

 

 実は、かくいう僕も、同年の春頃に実験映画の急先鋒ほしのあきら氏、伊藤智生監督(当時は本名の伊藤裕一さんとして活動)、イメージフォーラムの中島崇氏(現在は多摩美術大学・東京造形大学・武蔵野美術大学の非常勤講師)、池田裕之氏、畠山順氏(現・イメージエフ代表)と知り合い、喜劇を追究しようとの想いが揺らぎ始めていた。それで僕まで(自ら設立した)ニュー・キーストンを脱退しちまって・・・後任にターが代表となったけど・・・この件は今になって後悔している。

 傍から見れば、青臭いガキ共の名も知れぬ自主映画グループの単なる離合集散だけど、前章に挙げた『吉野家の映画丼』などのフィルムがターによってパーにされるとは!幼い時から思慮分別に欠ける奴だとは思っていたけど、まさかフィルムを分別ゴミに出すなんて予想できねぇヨ!!!

 

 こんな状況が重なって、僕の前からしばらくは「喜劇」が消えた。そして、「馬鹿ガキ」だった僕は「グレ小僧」となった。僕の変貌ぶりに小林君らはドン引きしていた。

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1979年3月頃。ター(中央)の撮影に駆り出される
多田浩章(左)と小林一三(右)。作品は完成しなかった!