喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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第二一話 笑いが消えた日

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『誰が為に金は有る』の撮影スナップ。因みに本編はモノクロ。


 『誰が為に金は有る』の撮影は、1980年の晩秋から始まった。この時点でニッポは翌年の春にレコード・デビューが決まっていたので、所属する会社のプロ・レッスン、水越誠一郎氏との個人練習、コンサート準備の合い間を縫って、我が自主製作に臨んでくれた。 

 

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メジャー・デビューを控えたニッポ。僕の実家で打ち合わせ中。


 それで最初にニッポと約束したのは、「究極のスラップスティック・コメディを作ろう」「今ではどこの映画会社もやらなくなった危険なギャグだけで構成しよう」「自主製作の枠を突き破ろう」という三点だった。

 僕らは若く、無謀な勢いだけはどこの誰よりもボタボタ溢れていたので、「核攻撃にも耐えうる不死身の肉体」を謳い、僕とニッポが互いの危険な技を競い合う形式で《ギャグをストーリーの推進力にする作品》と考えてみた。

 進行するうえでの難点は、ニッポのスケジュールに全工程を合わせなければならず、そのために《撮影開始が午後4時くらい=晩秋の日暮れは早い》《日時が限られるので撮影プランとノルマを厳守する》だった。そんな状況なので、もしもの怪我で撮影が中断した場合も想定して、とにかく二人が競演するアクション・シーンから撮影を始めた。でも、撮影を中断するくらいの怪我なんか、ゼッタイありえへんと自信満々だったね。

 すると天も我々に味方をしてくれたのか、雨にも降られず、画コンテに従った映像(撮影ノルマ)を見事に達成!単なる自己満足だけど、ニッポと僕こそ最強コンビだと確信した。

 

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当時の画コンテと台本!


 この『誰が為に金は有る』は、人気歌手のニッポがコンサートのギャラを悪党(僕)に盗まれる、といった超単純明快なストーリーで、全編クライマックスを標榜する、追っかけだけのアクション・コメディを目指していた。

 なので、想定していた危険シーン(本編)を完遂すると、あとは導入部の簡単なドラマ、アクションに到るまでのニッポの顔のアップ、コンサート当日に「客席の様子」と「人気歌手がステージで熱唱している」シーンを撮ったら、会場の外でラストのオチを撮影する予定だった。これら撮り足し部分を残して師走になったら、いよいよニッポはプロ歌手としてのデビューを目前に控えていたので、せいぜい深夜に電話で連絡が取れる程度、なかなか会う事は叶わなくなっていた。おまけに、ニッポは本格的な音楽活動を支えるようにと、クルマの運転免許を取得するべく地方の合宿制教習所へ入ってしまった。なので、僕はこのまま待機するしかなかった。

 

 撮影が中断している間、僕はアクションだけを先に編集して、旧ニュー・キーストンのメンバー(島ちゃん、オス、ゲバフ)、パーセントや企画者集団ホヘトの構成員に覆面試写を行なってみた。すると皆がイキナリ「これはスゴイ!」「正気の沙汰とは思えない!」「尋常じゃない!」と褒めてくれるじゃないの。

 気をよくした僕は浅はかにも(あるいは若気の到りから)情報誌『ぴあ』の欄外告知に「我々以上に危険なアクロバットを演じる喜劇の自主製作者には賞金百万円を与える!」と挑戦状を載せてしまった(結局は誰も応じて来なかったから安心したけど)。

 そんな自信過剰と自己満足が煮えたぎるマグマみたいに噴き出しているので、ニッポと連絡が取れた時にその覆面試写での評判を伝えると、「もう『誰が為に金は有る』は完成したも同然、成功は間違いないですから、コンサート当日の撮影と並行して、新作の準備を始めませんか?」と嬉しい言葉を返してきた。

 ニッポのコンサートは3月下旬(合宿制教習所から戻って警察の免許試験に合格していると仮定して日程を想定)となっていたので、ワクワクする気持ちを抑えつつ、僕の方はTBSそばの演劇スク-ルに通う一歳年上の女性にヒロイン役を頼んで、ニッポが純情な青年、僕が結婚詐欺師の役となる『猛進無用』の計画を練り始めた。

 

 2月上旬、午前1時を過ぎた頃にニッポから電話があった。

 「一生のお願いです・・・聞いて貰えますか?」

 「プロ・デビュー前に最後のアマチュア・コンサートを開きたいので、先輩のツテで舞台照明を借りられませんか?」

 「一生のお願い」なんて、今まで彼の口から聞いた事もない言葉だ。

 僕は「そりゃお安い御用だけど、そろそろ映画コンクールの締め切りも迫ってきているから、『誰が為に金は有る』の完成も考慮して」と頼んでみた。

 ニッポは「撮影スケジュールは明日以降に改めて調整します」と言うと電話を切った。それっきり連絡は途絶えた。

 

 2月24日、僕は友人の自主製作を手伝うためにオンボロ録音スタジオの中にいた。そのまま完徹作業に突入し、意識朦朧となっていたら、明け方にスタジオの床でギターのピックを拾った。あれ?今まで落ちてなかった筈だけど?これ誰の?と訊いても皆が寝不足でボ~として無言なので、そのピックをどこかに置いて(それとも革ジャンのポケットに入れたか?)フニャフニャで作業を続けた。

 

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この原稿作成中に発見された!ギターのピックを拾った時の《徹夜明け》写真!
1981年2月25日の時点でも、相当に古くてボロいスタジオだった(撮影:高石容二朗)


 それで午後遅くにようやく解放されて帰宅すると、母親が「さっきからGさんって女の子が何回も泣きながら電話してきてるよ」「アンタなかなかやるじゃない」と興味津々に眼を輝かせている。

 「疲れてんだからクダラネェ推測すんじゃねぇ!」と怒鳴って、母親がメモしたGさんの連絡先に電話してみた。

 

 因みにGさんという娘は『誰が為に金は有る』出演者の一人で、危険なアクション・シーンをゲリラ撮影する際は見張り番として活躍、そして近日中のコンサート現場で撮影する際はニッポへ花束を贈呈するファン役も演じる予定だった。

 

 電話に出たGさんは泣きながら「バヤン(ケラを名乗る以前の小林君のニックネーム)が『もうニッポのコンサートへ行く事はない、ニッポが死んだから』って言てるの!」と、まともに喋れなくなっていた。

 会話の意味がまるでわからないし、冗談にしても低劣過ぎるので、すかさず小林君へ電話すると「僕も気が動転して何が何だかわからない」「さっきニッポのお母さんから電話があって、バイクで事故ったって聞いただけで詳しい事情がわからないんです」と、どこから声を出しているんだかわからないような状態に陥っていた。

 僕は急いで近所のターとオスへ連絡して「ニッポ邸を訪ねて事実確認しよう」と提案してみた。こんな時でもターのイカレた母親は「ニッポが亡くなった」という伝言を「バカバカちゃんが死んじゃったって、ヘヘヘ~♪」と軽口に変換したままターには一向に事情を伝えず、受話器の前で延々と時間を空費されたので、僕はようやく電話を代わったターへ「オマエのキチガイ母ちゃんをどっかに捨てろ!」と怒鳴りつけてやった。

 

 20時頃、苦い顔した正装のターが慌てて僕の家にやって来る。オスも合流して、ようやくニッポ邸に向う。

 ニッポはカノジョがクリスチャンだったので、自身も洗礼を受けてクリスチャンとなっていた。だからなのか、ニッポの家の門には神仏系のお通夜のような提灯や行燈がなく、ただ《夕食時の平和なご家庭》みたいに静まり返っていた。玄関で出迎えてくれたのはニッポのお母様で、僕が名前を告げると「お噂は善和からかねがね伺っております。どうか息子に会ってやって下さい」と奥へ通された。

 そこには、呼びかければスグ起き上がるようニッポが花に囲まれて寝ていた。いつもよりちょっと顔色が悪いけど、ニッポは静かに眠っているだけだった。僕は眼前の事実が呑み込めなかった。この状況を認めたくなかった。

 小さな声で「ニッポ」と呼んでみたけど、大きな声で叫んだところで起きてくれる様子はない。するとニッポのお父様が号泣しながら「よくコイツの顔を見てやって下さい」と僕らに伝えると、「馬鹿な奴で、買ったばっかりのギターを壊さないように守って自分が逝っちゃうんだから、馬鹿な奴だ、馬鹿な奴だ…」とニッポを叱り始めた。

 この瞬間まで、僕はまだ祖父母など血縁関係にある人、身近な親しい知人を失った経験がないので、「死」という状態が何であるかさえわからなかった。若者が「死」を美化して、憧れを抱いたりするけど、これがその「死」なのか? ニッポは《不死身の肉体》を誇っていた筈なのに、アッサリ「死」という物理的な現象を受容したのか? どうしてなのか? ニッポの悪い冗談としか思えない。だから早く起きてくれ!目を開けろ!「先輩、ビックリしたでしょ」とおどけてくれ!現況を認識する能力が僕にはないんだから、とにかくニッポの声で今どうなっているのかを説明してくれ!

 この夜はどうやってターと家に帰ったのか、まったく記憶がない。それほどに憔悴して、さっきまで見ていた光景を信じたくなくて、何から何まで混乱していた。

 翌日の昼、小林・多田・平澤・北村(現・喜多村)・オス・僕というニュー・キーストンの野郎集団で、改めて正装してニッポ宅へ弔問に伺った。やはりニッポは静かに眠ったままだった。以前のニッポとの違いは、目尻から鼻筋にかけての血色が完全に失せて青白くなっていたくらいかな。

 一晩経って僕はようやく事態を悟った。涙が止まらなくなって、何も喋れない。《最強のコンビ》と自画自賛していた自主製作の仲間がもういないのだ。やっと理解できた。悪夢じゃない!これは現実だ!

 ニッポ邸から最寄駅「学芸大学」へ向かう途中は、誰もが喋れないままダラダラと歩いていた。僕は涙を止めて冷静になるつもりで、タバコと喫茶店のマッチをポケットから出して、火をつけようすると、なぜかマッチ箱の中にギターのピックが入っているではないか!(おそらく前日にオンボロ録音スタジオで拾ったモノだろうけど…!?)

 「おい!コレ!!!」と多田君に見せるや、涙がドッと溢れ出した。

 「僕らが弔問に来た事をニッポはわかったんだ」

 「ニッポから最期の挨拶だ…」

 

 多感な歳に仲良しの相棒を失った事で、生きている以上は最悪の別れがいつでもつきまとう事を痛感した。それは偶然かもしれないし、いつどこでも、誰にでもあり得る、だから志半ばで去ってしまった仲間を弔うために、僕らは生き続ける努力を常に惜しまない・・・と強く胸に誓った。

 

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『誰が為に金は有る』撮影初日のスナップ。
前列左から僕、ニッポ、撮影の安尾信二君、後ろが運転手役のキチハラ。

 

【追記】

 『誰が為に金は有る』の撮影済みフィルムを、ニッポは一切見ないまま逝ってしまった。そして作品は未完成ながらもPFF、富士フィルム8ミリコンテスト、フランスのリール喜劇映画祭へ出品した。詳しい経緯は次項に載せるけど、この作品を2003年に超絶ヴァイオリニストの太田惠資氏が、ご自身の主宰するライヴで生演奏にて上演してくれた! その模様をYouTubuに載せたけど、かなり昔の投稿で画質が悪いです。どうかご了承下さい。 

 https://www.youtube.com/watch?v=cFa3kmfZyms&t=168s

 再見すると心底恥ずかしい思春期の手作りフィルムだけど、ニッポを偲ぶだけでなく、2003年に制作進行を手伝ってくれた高石容二朗君、2004年に撮影を担当した安尾信二君までが夭折した事で、僕にとっては最も想い出の詰まった宝物となった。フィルムに記録されなかった楽しいハプニングも、僕は永遠に忘れない。

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左が制作進行を手伝ってくれた高石容二朗君、右が僕。
撮影のため、東急大井町線で移動中。