喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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第二四話 山あり谷あり綱渡り

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1982年12月5日 六本木のクリエイティブ・スペースOM映写室にて。
左がケラリーノ・サンドロヴィッチに変身前の小林君、右が僕。


 昭和の後半を一緒にガチャガチャ騒いでいた小林君が、平成最後の秋に演出家ケラリーノ・サンドロヴィッチとして紫綬褒章を受けるって、とてもビックリだなぁ(二年前の文部科学大臣賞もビックラこいたけど)。感慨深いし、信じられないし、とにかく僕はただ驚くだけだワ。

 

 という理由で過去を曝け出す訳じゃないけど、引き続き喜劇映画研究会の黎明期を備忘録みたいに残しておこう。

 前章では『フィルム・コレクター連盟』の新任会長A氏から連絡があった事までは書いたけど、よくよく思い出したら、A氏と直接の面会を果たすまで二、三年も空いてしまったんだ! 僕がのんびりしていた訳じゃないけど、自主製作やら就職やら忙しくなって、A氏との約束を後回しにするしかなかったからだ。

 

 1982年、ニッポが亡くなって一年経ってから、僕は再び自主製作でコメディを作ろうと発奮した。それで、小林君より『ジジイの初恋』(第十九話参照)で紹介された瀧本尚美嬢をヒロインに迎えて、『そして誰もいらなくなった』というドタバタ喜劇を作り始めた。

 例によって彼女の出番より先にアクション・シーンから撮り始めようとニュー・キーストンの仲間を集めたところ、いきなりロケ初日に西麻布の某所で信号の配電盤にクルマを突っ込ませて、全部ブッ壊しちまったぃ!そのため、四年ぶり二度目のパトカーお迎えで麻布警察署へ連行となった。これに懲りた訳じゃないけど、『そして誰もいらなくなった』が完成すると、僕は自主製作(コメディ)をひとまず幕引きとした。

 

 その年の暮れ頃だったか、盟友の高石君から「自分が所属する新宿の制作プロダクションで人材を募集している」と聞かされ、そそくさと面接に行ってみた。すると即決で採用!翌日から通う事になったけど…出社早々に高石君は「オマエが来たから交代で辞める」なんて無責任な発言をするじゃないか! まだ商習慣も知らなければギョーカイの右も左もわからない僕を置いて退社ってのもヒドイ!それじゃ僕はただの身代わりじゃんか!とゴネたら、「じゃあ、とりあえず、オマエが仕事を覚えるまでいる」との事。

 出社一日目で朝がこんな調子、午後は独り事務所の留守番をさせられると、ひっきりなしに電話が鳴るではないか。新人特有のおぼつかない応答ながらも電話を取ると、のっけから怒鳴られるか(クレームだ…)、支払いの督促で脅されるかだ! 一体、この会社はどんな仕事しとるんかい?

 詳しく述べるまでもなく、この会社は実体のないペテン事務所みたいなトコで、僕も高石君もほとんど給料を貰えないままアッチコッチ振り回された。まだギョーカイの情況もわからないので何とか三ヶ月は踏ん張ってみたものの、結局は高石君より先に僕が逃げ出した。無給で無休じゃ話にならん。だけど、その数週間後に今度は社長も夜逃げして、高石君が出社した朝に事務所はカラ、いきなり債権者に取り囲まれたそうだ。

 

 その後に僕は、映画フィルムの現像所もある大手ポスト・プロダクションの制作部に拾われた。ここは昭和中期にエノケン、ロッパが在籍していた会社で、近年に超大手電機メーカーの傘下となったトコだ(もうコレで社名もバレバレだろう)。

 僕の出社は7月1日から、そして最年少の男手となったので、同期も同僚もいないまま、ひたすら奴隷か囚人のごとく重労働を科された。まだパワハラなんて概念もなく、活動屋(映画関係)の流儀で徒弟制度が厳しかった最後の世代なので、現場はとにかくバイオレンスに満ちていた。けど、僕は空手道場で強烈な《可愛がり》を経験しているので、(睡眠時間がない事を除けば)特に辛くはなかった。いや、むしろ野蛮な状況を楽しんでいたかもしれない。

 何よりも、ここに在籍できた事から撮影や編集のテクニックを裏も表も学べたうえ、フィルム、ビデオ、テレシネ、データ・アーカイヴ等の知識や、CM、TV、映画、ラジオ、レコード業界の事情も得られたので、低賃金でどんなにこき使われようが決して損はなかった(人生の糧と考えた場合だけど)。今の喜劇映画研究会の筋肉や骨格が形成されたのは、ここでの経験にほかならない。

 しかし、当時はそんな悠長に感謝している余裕もなく、毎日をどう乗り切るか、スタッフが喧嘩にならずいかに要領よく切り抜けるか、どう効率よく前に進むか、予算とスケジュール、食事の手配なんか手探りするだけで精一杯だった。一日96時間くらいジタバタするのが二年くらい続いたであろうか、ようやく後輩となる新人が入社してきた。

 まぁ、僕も下っ端から数えてまだ二番目か三番目くらいのスタンスでしかないけど、当初の奴隷時代よりちょっぴりプライベートの時間を与えられたので、ふとコメディに対する想いが頭をよぎった。

 「A氏とは会ってないままだったけど、まだ僕を覚えているだろうか」

 「古典映画のフィルムって、まだ売られてるんじゃろか…」

  

 こんな事を思い出したのは、僕が《パシリ》で忙殺されている間に、悪徳輸入業者Jが経営不振で行方をくらましたり、海外のフィルム販売会社がことごとく倒産したり等、情報だけが耳に入っていたからだ。不思議にもこの情報を伝えてくれたのは、既にフィルム収集や自主製作から手を退いて、『伝染病』というバンド名で活動中の小林君からだった。

 なので、興味本位からそろそろA氏にも会ってみようかなぁと考え、とりあえず電話をしてみたところ、A氏より『フィルム・コレクター連盟』は自然消滅、悪徳輸入業者Jに対抗で起業したTFS(練馬区)も廃業と伝えられた。それで僕は「もうフィルムを集める時代じゃなくなったんですかねぇ」と会う機会すらも消滅したみたいに返すと、A氏は「ところが最近は古い映画の発見が相次いで、業者よりもコレクターの方がスゴイ」「海外のコレクターは良心的で、廉価にてコレクションを複製してくれる」というではないか!

 僕は「古い映画の発見」なるワードに過剰反応して、この当時フィルムが現存しないと喧伝されていた『キートンのカメラマン』について尋ねてみた。するとA氏は「フィルム・コレクター連盟の会員だった人に輸入代行を頼まれて、ワタシ買いましたよ」「画面は少々暗いですけど、ノー・カット版が手に入りますよ」とすんなり返答!これにはブッたまげた。

 「今も入手できるんですか?」

 「もちろんです」

 「あと、『キートンの結婚狂』も手に入りますよ」

 

 どちらも文献では幻の映画とされている!僕はダイヤモンドの鉱脈に辿り着いた気分で、再びコメディ熱にうなされ始めた。A氏とは週末に吉祥寺で会う約束をすると、もう毎日のキツい仕事も、フィルムを買うための資金稼ぎだと考えれば気が楽になった。幻のキートン作品のためなら、矢でも鉄砲でも持って来やがれ!ってな調子になった。