かつて我が喜劇映画研究会では、「チャーリーだけが偉大じゃない!」をキャッチフレーズに、敢えてチャップリンを避けて、積極的に忘れ去られた往年の喜劇人を企画上映していました。
しかし、喜劇映画研究会創立50年の本年から振り返ると、初代会長による1976年11月6日の渋谷区立広尾中学校の文化祭における『チャップリンの冒険』上映が出発点で、続く恵比寿シネプラザ・スペース50(1990年代に廃業)での『巴里の女性』上映が本格的な活動開始だったようなので、やはり節目には僕がチャップリンを攻めるっきゃないワと思い…今回は「放浪紳士」を追究してみます!?
【チャップリン登場の衝撃】
コメディや古典映画に詳しい人ならご承知の通り、チャップリンは1914年に初めて「The Tramp」、日本では「放浪紳士」と呼ばれるキャラクターでスクリーンに登場して、瞬く間に世界中の人気者となりました。
ここで何よりも驚異なのは、既に欧米では夥しい数のコメディアン、コメディエンヌが主演映画を発表していて、中にはもう映画歴10年以上なんてキャリアの世界的スター(すなわち、ほぼ映画誕生間もなくからスターになった)も存在する中、どうしてヒョイと現われたチャップリンだけがイキナリ一番人気をかっさらう事ができたのか???
例えは悪いけど、かつて『燃えよドラゴン(Enter the Dragon)』の公開によって世界中がカンフー・ブームとなった時代は、細マッチョの小柄な兄ちゃんが奇声を発しながら素手で大勢の敵をなぎ倒す、映画史上初の後ろ回し蹴り、顔面に一撃必殺ハイキックをぶち込む等々、それまでどの国のアクション映画(香港映画界は別だろうけど…)にもなかった殺陣、つまり肉体パフォーマンスの嚆矢となったからでしょう。
あの時代は邦画までも慌ててアクション・スターの千葉真一や、なんと田宮二郎までも主演にしてカラテ映画を発表…と過熱しましたけど、これは先例のないところでイキナリ火がついて、以降にエピゴーネンが続いてゆく図式だった訳です。
ところが、ド新人である筈のチャップリンが、コメディを先導する幾多のコメディアンを押しのけて、突出して世界的ブームを巻き起こす(それは観客だけでなく、エンタテインメント業界にも多くの影響を与えた)のは、異例中の異例、もはや芸能文化史の超常現象といっても過言ではありません!そして、チャップリン「放浪紳士」が今日までに数えきれない程の「模倣」と「剽窃」を生み出した事は、異常というか、偉業というか…。
模倣とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスのいうテクネー(Τέχνη)、すなわち芸術活動は既存の万物を真似て新たに想像する行為ですので、悪い行為ではありません。チャップリンの模倣から世に出た成功者といえば、第一にハロルド・ロイド(詳細は後述)が挙げられます。
しかし、剽窃とは悪意あるパチモンを示しますので、チャップリンを騙る偽装、詐欺、市場の攪乱など、チャーリー・アップリンやビリー・ウエストら偽チャップリンが挙げられます。
【魅力の検証】
さて、このチャップリンの人気ぶりについては、一度見ただけで忘れられない(覚えやすい)、万人ウケする、そして安直に真似できるようなキャラクター性であって、誰もが「愛嬌ある鼻髭」「特徴的なヨチヨチ歩き」を思い浮かべるでしょう。
チャップリン登場以前のアメリカ映画界のドタバタ喜劇は、顔のクローズ・アップを撮るような演出がほとんどなく、雰囲気全体を撮る集団劇に近いドヤドヤなノリだったので、特異な体形ではない主役級コメディアンは、大抵の場合、他者と自分を差別化(誰よりも目立つ格好)しようと、大きな髭やグロテスクな髯を着用していました。
これは映画誕生以前、道化師たちが照明設備のない薄暗い劇場やサーカスのテント内で、白いドーランに赤い鼻、大きな唇(口紅)、頬紅、目玉の周囲を派手な縁取りで「顔」を作って、遠くの観客からも目立つようしていた工夫をヒントに、映画コメディアンたちは「モノクロ画面」での「登場人物の現実味」を考慮して、それらメイクを黒い髭に改めた訳です。
こうして奇怪な鼻髭が流行する中、サーカス・クラウンから映画コメディアンに転身したフォード・スターリング(1882~1939)は、大きな鼻髭を丸い顎鬚に変えるアイデアで、国際的なスターの座を獲得しました。

『A Strong Revenge(強敵)』1913年 より
その数年後にチャップリンがチョビ髭で登場するや否や、多くのコメディアンはこぞってチョビ髭を採用しました。これは道化師の赤い鼻は顔の中心にあって表情を変えてもほとんど動きませんし、多くの映画コメディアンが着用する大きな鼻髭は表情を隠してしまいますが、チョビ髭は顔の1/3くらいの位置に鎮座して、表情(鼻の動き)と連動するので、こんな便利なアイテムはない!との結論に到ったからでしょう。
演者にしてみれば、簡単に装着できて顔も識別できるうえ、ベスト・ポジションで機微多彩に動いて、感情表現を巧みにサポートしてくれるのですから。コメディアンにとっては、このうえないアイコンとなりますね。
特に映画は、舞台にはない「クローズ・アップ」という技術的表現がありますので、白黒フィルムで白い顔に映える黒いチョビ髭は、顔面芸で《感嘆詞か強調句みたいな効果》を発揮する訳です。
フォード・スターリングの顎鬚も、本人の表情こそハッキリ認識できますが、感情表現を助長するアイコンにはなっていませんでした。
ところで、チャップリンがこのチョビ髭を《映画において感情表現に絶大な効能あり》と発見したのは偶然か?計算づくか?となりますが、いかに天才であろうと、これは偶然の賜物といえるでしょう。
デビュー直後にして劇場公開二作目の『Kid auto races at Venice(ベニスにおけるベビーカー競争)』に放浪紳士が登場した時点では、チャップリンは舞台芸人から映画界へ転身してきたばかりのルーキーでしかなく、演出、撮影、編集に関してはまるっきり未踏の領域だったので、カメラ前でひたすら愉快な演技を見せようと奮闘していたところで、偶然にも効果絶大なクローズ・アップが撮られた、というのが史実でしょう。

ちょっと話は脱線しますが、チョビ髭について、もうひとり別の超有名な人物が注目した逸話もお伝えしましょう。
かつて「放浪紳士」ならぬ「放浪青年」だった頃のアドルフ・ヒトラーは、1919年にドイツ労働者党(ナチ党となる以前の小さな政治結社)を探る目的でミュンヘンの集会に参加して、創設者のひとりゴットフリート・フェーダー(1883~1941)の演説を聴くうち、フェーダーの口元で蠢く「表情に合わせて機敏に働くチョビ髭」に魅了され、ヒトラー自らもチョビ髭に変えたという説があります。

これは第一次世界大戦前後のドイツで、カイゼル髭(Kaiser=皇帝=ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の鼻髭を模した)が流行、ヒトラーもご多分に洩れずカイゼル髭を湛えていました。その一方、戦中のイギリス軍による毒ガス攻撃で、ガスマスクを着装するとデカい髭が邪魔になるため、衛生髭(Zahnbürstenbart)と呼ばれる鼻の下に四角く整える髭、つまりチョビ髭も流行していました。ゴットフリート・フェーダーはたまたまチョビ髭愛好者のひとりだったという事です。

ドイツ人を侮辱するギャグにされていた
『デブの料理番(The Waiters' Ball)』1916年より
ここに《感情表現の重要なファクターとしてチョビ髭は欠かせない!》というヒトラーの着想があった訳です。因みに、チャップリンとヒトラーを運命的に結びつける人々が世界中にいっぱい存在しますが、僕は髭の効能で結びつけただけで、運命論とか魂のブループリントみたいには考えていません。
蛇足ながら、『ベニスにおけるベビーカー競争』のチャップリンと、ヒトラーの『1919年のミュンヘンで初めて撮影された姿』は動作、カメラ・アングル、周囲のガヤガヤした状況がよく似ていて、僕はコチラの方に何らかの因縁を感じます。
【神がかりの影響力】
チャップリン人気は1915年から垂直に急上昇して、アメリカでは「チャップリン狂(‘The Chaplin Craze)」、または「チャップリン病(Chaplinitis)」と呼ばれ、数々のキャラクター商品や放浪紳士をマスコットにした日用品が大量に製造され、非公認アニメーションまでも制作されました。
また、1921年頃をピークに、全米各地で頻繁にチャップリンそっくりさんコンテストが開催されたようです。これには「サンフランシスコでチャップリン本人がこっそり参加して入賞すらできなかった」「シカゴで27位になったのが実は本人だった」「審査員のメリー・ピックフォードがチャーリー本人だと気づかなかった」「2位に入賞したチャップリン本人が1位になったそっくりさんを心から讃えて、ホンモノのヨチヨチ歩きを直伝した」なんちゅう都市伝説も囁かれました。現代でも、チャップリンそっくりさんを自称する熱烈なファン(というより放浪紳士の男女コスプレ集団)が、スイスのチャップリン邸で大集会を開いている記事を目にしました。それだけ老若男女を問わず真似しやすい、真似したくなるキャラクターという事なんでしょう。
モノマネの登場する映画は、1926年のルネ・クレール監督『Le voyage imaginaire(空想の旅)』、1950年のビリー・ワイルダー監督『サンセット大通り(Sunset Boulevard)』でのグロリア・スワンソン、1978年のシルヴェスター・スタローン監督・脚本・主演『パラダイス・アレイ(Paradise Alley)』、1994年のリュック・ベッソン監督『レオン(Léon)』のナタリー・ポートマン、2018年のマキシム・ジルー監督『大いなる闇の日々(The Great Darkened Days)』が有名です。

1989年のイギリスはテムズTV制作、ジョー・ギアリー主演のテレビ・ドラマ『若き日のチャップリン(Young Charlie Chaplin)』や、1992年のリチャード・アッテンボロー監督、ロバート・ダウニーJr主演の『チャーリー(Chaplin)』は伝記モノなので模倣とは違いますけど、ここに記しておきましょう。それとちょっと趣向は違うけど、2014年のグザヴィエ・ボーヴォワ監督作品『チャップリンからの贈りもの(La Rançon de la gloire)』も付記しておきます。
放浪紳士の扮装だけ真似た芸能人のポートレートでは、ルシル・ボール、ウッディ・アレン、マイケル・ジャクソンが有名です。
近年の出来事で有名なのは、2022年5月17日のカンヌ国際映画祭開幕式にて、元コメディアンのウォロディミル・オレクサンドロヴィチ・ゼレンスキーが「映画界には新しいチャップリンが必要だ」「現実の独裁者を倒せなくても、映画は黙っていなかった。自由の勝利を謳う声になったんだ!」「第二次世界大戦後、欧州で最悪の戦争が起きている。モスクワにいる1人の男のせいだ」と切実に訴えていましたねぇ。これは印象的でした。
日本では1930年代(鬼畜米英と喧伝される直前)まで、各地でそっくりさんコンテストが行われていた記録は多くあります。明治製菓のミルクキャラメルには日本の挿絵画家によるチャップリンの似顔絵がパッケージや封入のオマケとなっていました。
萬歳(現代の漫才の元祖)の舞台では、日本チャップリン(生歿年不詳)という元・剣戟役者が妻の梅廼家ウグイス(生歿年不詳)と組んで活躍、映画界には松竹蒲田撮影所から小倉繁(1904~1958)という「放浪紳士」の扮装を模した俳優も登場して、昭和七年(1932年)にはなんと「チャップリンよなぜ泣くか」という主演映画まで作られました。また、のちに名監督となる内田吐夢も、大正十五年(1926年)に日本活動寫眞(現・にっかつ)にてチャップリンを模したいでたちで『舶来頓珍漢』という長編喜劇の主演を務めています。
昭和六年(1931年)には劇作家の木村錦花が『街の灯』を翻案した新作歌舞伎『蝙蝠の安さん』を十三代目守田勘彌主演で発表します。因みに、この『蝙蝠の安さん』は、令和元年(2019年)に十代目松本幸四郎によって再演され、大きな話題を呼びました。
戦後の模倣では、1973年に東和(現・東宝東和)配給のビバ!チャップリンという特集上映で『街の灯』に感銘を受けた愛川欽也が東映に企画を売り込んで完成させた、1976年公開の石井輝男監督『キンキンのルンペン大将』があります。和風チャップリン味の極みというか、キワモノというか…
1972年よりNET系(現・テレビ朝日)で放送の『人造人間キカイダー』に登場する狂言回し的な私立探偵・服部半平を演じていた植田峻(うえだ俊)も、昭和後期に和製チャップリンと呼ばれていました。
平成に入ると、2016年のNHK土曜ドラマ、黒柳徹子の半生を描いた『トットてれび』では、三浦大知がチャップリンを演じています。アニメの声優として活躍中の茶風林も、芸名の由来はチャップリンからです。大道芸をメインに活躍するパントマイミストには、プッチャリンもいます。赤塚不二夫や萩本欽一が自らの創作、表現に影響を受けていたというのは有名な話ですね。
そっくりさんが演じるテレビCMでは、1991年に旧・郵政省の「郵便貯金ニューMMC300」を、パントマイミストちゅうサン演じるチャップリンが紹介していて、2019年には株式会社CAMPFIREが女優のんとジェイソン・アリン演じるチャップリンがキャンプファイヤーを囲んで語り合うシチュエーションまで作られました。因みに、ディレクターの超勘違いから、山高帽を被った福山雅治がキートンのギャグを真似る某調味料CMなんちゅうのもありました。
テレビ番組内の企画で、かくし芸や一発芸として「放浪紳士」の扮装をしたタレントは多いですが、チャップリン愛に満ちた漫画家の加藤芳郎は、自ら外見を似せようと努力していたそうです。また、僕が一度だけ仕事で会ったレオナルド熊は、チャップリンに心酔して自宅玄関に大きなポスターを貼り、チャップリン愛について尋ねると、思わずジ~ンとなって涙をこぼす熱い人でした。この相方の石倉三郎は、「コント・レオナルド」結成以前に、別の人と「チャップリンズ」または「コント・チャップリン」という漫才コンビを組んでいたそうです!?
【跳梁跋扈する偽チャップリン】
百年以上前に登場した放浪紳士が、遠く離れた日本で今もこれだけ愛され続けているのですから、1910年代後半の欧米で、パチモンやマガイモノが大量発生したのは、想像に難くありません。
人気=商品価値ですから、ヴォードヴィリアンやサーカス・クラウンが「放浪紳士」を完璧に演じれば、それ相応の稼ぎになるだろうと、剽窃者が続々と映画界に参入してきた訳です。
ラジオもテレビも、当然ながらインターネットもなく、国民の識字率も低い時代で、大衆娯楽の絶対王者は映画(それも喜劇)の1910年代、映画技術と配給の利権で発明者エジソンと新規参入の事業経営者が揉めている背景もあって、製作側と興行主も混乱を極めていました。こんな状況下で人気ダントツNo.1のチャップリンはキーストン社から独立しますが、配給網の制約や完全主義を貫く製作方針から、新作を期待する興行主や観客が「待たされる!」という問題が生じていました。
独立前の1914年、キーストン社で36作品に出演が、独立した1915年にエッサネイ社から製作・監督・脚本・主演で15作品を発表、1916年に移籍したミューチュアル社で年12作品発表となりました。偽チャップリンたちはその隙を突いて、月2作品以上をコンスタントに発表するペースで市場参入(侵入)してきたのです!
まず、その筆頭がビリー・ウエスト(本名ロイ・ベンヤミン・ヴァイスブルク、1892~1975)というユダヤ系ロシア人です。2歳の時にアメリカへ移り住み、14歳で学業を放り出して「ウィリアム・B・ウエスト」の芸名でヴォードヴィルの世界へ入ります。そしてマック・セネット率いるキーストン社のチャップリン作品に感激して「これぞ我が道!」と考えていたところ、1916年にちょうどキーストン社とケンカ別れしてきた顧問弁護士ルイス・バーンスタインという男に出会い、キング・ビーという小さな映画会社を設立して「放浪紳士」でデビューします。そしてその後も5社を渡り歩いて「放浪紳士」を演じ続けました。

ビリー・ウエスト喜劇は、脇を固める人物設定までそっくりのパチモン映画ですけど、デビュー当初に主人公の小男を脅かす巨漢役を演じたのは、なんとのちにハル・ローチ・スタジオズで「ローレル&ハーディ」として大ブレイクする以前のオリバー・ハーディ(詳細はこのブログ「ローレル&ハーディ伝説② ~『僕たちのラストステージ』応援作戦その1」をご参照)でした。また、本家チャップリン作品の常連となるレオ・ホワイト(本名レオ・ハーバート・ホワイト、1873~1948)もサポート役で起用されていました。

私見として、ビリー・ウエスト喜劇は「絶妙にチャップリンを演じる」に比重が置かれ、ギャグはまるっきり凡庸に感じました。けど、偽チャップリン卒業後に監督業へ転向してからのコメディはなかなか健闘しているなぁと思いましたね。
映画とは別にサイコーのギャグ(?)は、カリフォルニアの街中でウエスト班が撮影していたところ、そこへたまたまチャップリン本人が通りかかり、ウエストに「君はサイコーのモノマネ芸人だね」と称賛したなんて逸話があります!こン時のウエスト氏、心境やいかに?と興味が湧きますねぇ。
因みに、当時のウエスト喜劇を監督していたのは、キーストン社でチャップリンの同僚だった、のちにハル・ローチ・スタジオズで大活躍するチャーリー・チェイス(本名のチャールズ・パロットで活動、1893~1940)でした。チェイスとハーディはこの縁で友情が育まれて、のちに「ローレル&ハーディ」を発案したとされます。
続いては「チャーリー・アップリン」ことチャールズ・エドワード・アマドゥアー(本名カルロス・アマドール、1892~1974)というメキシコ人で、訳がわからない事に「放浪紳士」を真似た当初は「ビリー・ウエスト」を名乗っていました。これはキング・ビー社からサンフォード・プロダクションズに移籍したビリー・ウエストが再び他社へ移った際に、サンフォード・プロダクションズ側が「二代目ウエスト」としてアマドゥアーを発掘して売り出したからという説もあります。
そして「アップリン」に改名してからはチャップリンとの係争が1928年まで続き、衣装やチョビ髭、ヨチヨチ歩きについては弁護士を通じて「多くの道化師たちがむかしから舞台で演じていたものだ!」と持論を展開し、タブロイド紙を賑わせました。

僕はアップリン作品を見ていませんが、写真だけで判断すると、宇梶剛士がチャップリンの真似しているみたいで、ちょっとコワイんですけど。

映画とは別にサイコーのギャグ(?)は、「アップリンvs.チャップリン裁判」にて、チャップリンはアップリンの剽窃を立証するために、モノマネ芸人の第一人者として、ビリー・ウエストに法廷での証言を頼んだそうです!こン時もウエスト氏、心境やいかに?と興味が湧きますねぇ。
今日、アメリカとメキシコで十本以上作られたアップリン喜劇は、「放浪紳士」係争の敗訴によって散逸し、ほぼ再見不可能となっています。
このアップリンとウエストに関連して、偽チャップリンは複雑怪奇な様相を呈します。そもそもは単なるニセモノでしかない筈なのに、よっぽど儲かるのでしょう、ウエストのいたキング・ビー社に反旗を翻した役員二人が独立して、元ヴォードヴィリアンのレイ・ヒューズ(生歿年、及び詳細不明)を別の偽チャップリン役者としてデビューさせました。

THE MOVING PICTURE WORLD 1918年1月12日号
そしてこの間にもウエストが数か月だけ在籍していたブルズ・アイ社とエメラルド・ピクチャーズ社の間で「ビリー・ウエスト」という商標と、チョビ髭を含む「放浪紳士の扮装」について激しく争われ、四代目(?)ビリー・ウエストとしてロシア人コメディアンのハリー・マン(詳細不明、1893~1965)をデビューさせました。
マン演ずる小男を脅かす巨漢役は、キーストン社でチャップリンの同僚、そしてのちに『黄金狂時代』にて「冬の山小屋で飢えて靴を食べる仲間」を演じたマック・スウェインが起用されました。
僕の知るマンは、チャップリンが師と仰ぐフランスのコメディアン、マックス・ランデール(本名ガブリエル・マクシミリアン・ルベール、1883~1925)がアメリカで製作した『ライオンと征服将軍(Seven Years' Bad Luck)』にて、ランデールと鏡のギャグを演じている姿です。これまたパントマイムがメチャメチャ上手いうえ、あまりにチャップリンそっくりなので、偽チャップリンのひとりだったと知って、なるほど~!と頷きました。

『ライオンと征服将軍(Seven Years' Bad Luck)』1922年より
ついでながら、今日ではもう再見不可能の作品(見たい人も僕くらいだろうけど)では、係争中のブルズ・アイ社が偽ビリー・ウエスト(偽チャップリンでないの~?)を複数人デビューさせていたようです。
ここでちょっと、飽くまで僕の推測ですが、「チャップリンこそが正統」という現代の見解とは違って、映画業界自体がカオスだった1910年代では、ひょっとしてチャップリンよりウエストの方が商品価値や知名度の高い地域もあったンではないかと考えてしまいました。もちろん実力云々は別問題です。
こんなにも「放浪紳士」が濫立した中で、なぜ「ビリー・ウエスト」を騙る者が何人も登場したのでしょう。チャップリンからすれば本末転倒も甚だしい、堪ったもんじゃありゃしねぇ事態ですが、「放浪紳士」のキャラクター人気があっちこっちで先走って、「チャーリー」という演者の名前よりも「ビリー」の方があるエリアの人々には浸透していたとか!?

今となってはもう市場規模とか認知度なんか調べるすべもないでしょうが、こういう酔狂なリサーチもあれば、歴史の側面が窺えたかもしれませんね。もし実際にそんな状況だったなら、「ニセモノ」が開拓したマーケットを宣伝に逆利用する手もありましたでしょうし。
ボビー・ダン(本名ロバート・V・ダン、1890~1937)は、マック・セネット率いるキーストン社でスタントマン兼任の役者としてデビューのアメリカ人で、過激なアクションから左目を失ったコメディアンです。死の直前まで名バイプレーヤーとして著名コメディアンたちをサポートしていましたが、1920年代前半にはアロウ社から「チャーレイ」なる偽チャップリンで主役を張っていました。
ダン演ずる小男を脅かす巨漢役には、なんとバスター・キートン作品の名ゴリアテとして君臨するジョー・ロバーツ(本名ジョゼフ・ヘンリー・ロバーツ、1871~1923)が起用されていました。

『Fast Mail-Man(迅速な郵便配達夫)』1922年より
その「チャーレイ」作品ですが、もう粗製乱造の極みで、ストーリーの支離滅裂さはもちろん、撮影しているカット途中でフィルムが終わり、(フィルムを入れ替える際にカメラ・アングルが変わるのは当然としても)もう一度同じカットを撮り直したところで、それら全てを未編集のまま完成版として繋いでいました!いくら当時フィルムが貴重だったとはいえ、せめてもフィルムを入れ替えた以降だけをOKカットとして採用するのが常識な筈で、この低レベルぶりは制作途中で監督が発狂したとしか思えません。今日のスマホで動画配信に励む小学生なら、見た瞬間に「こりゃヒデー」と呆れるでしょう。
この他、フリドリン、ドイツの「チャーリー・カップリン」、エルンスト・ボッサール、フランスの「ジャック」アンドレ・セシャン、トリオ・リベール、スイスのヴァルター・ゲフェラー、ロシアのアルカディ・ボイトラーといった、今では詳細もわからなければ、フィルムの存在すらもわからないパチモン、マガイモンが跳梁跋扈していました。
チャップリンの亜流からキートンの扮装までも盗用した無節操なコメディアンでは、キーストン社出身で(チャップリン作品では助演もしている)、フォックス社にて主演コメディアンとなったチャールズ・ドレティ(1898~1957)というサンフランシスコ生まれのアメリカ人もいました。彼の主演作では、ヒロインをキートン最初期短編で大人気だった女優シビル・シーリー(本名シビエ・トゥレビラ、1902~1984)が演じ、のちにローレル&ハーディの名敵役となるジャイムズ・フィンレイスン(1887~1953)が、やはり敵役で起用されていました。

シビル・シーリー(左)とジェイムズ・フィンレイスン(右)
トーキーの時代では、インド映画界にラジャ・カプール(本名ラテ・シュリ・ラジャ・カプール、1924~1988)という、チャップリンのキャラクター・イメージを模した大スターもいました。彼はハリウッドで研鑽を積んだのちに帰国、自社を設立して監督・主演を果たし、インドの国民的英雄となりました。
1915~20年代の舞台では、ルー・ブルーム(本名ルートヴィヒ・プフルム、1859~1929)というアメリカ人の元ボクサーでヴォードヴィリアン(のちに絵画コレクター、贋作者として名を馳せる)が19世紀末から浮浪者キャラを演じていると主張、チャップリン人気に対しては「放浪紳士を最初に演じたのはこのオレ」「オレがチャーリーにヨチヨチ歩きを教えたんだ」などと語っていたそうです。
チャップリンが映画界へ入る以前に所属していたヴォードヴィル劇団のフレッド・カルノ座で同僚だったスタンレイ・ジェファーソン(のちにスタン・ローレルという芸名に変更、詳細はこのブログ「ローレル&ハーディ伝説② ~『僕たちのラストステージ』応援作戦その1」をご参照)も、チャップリン人気に当て込んで「キーストン・トリオ」なるグループを組んでいたとされます。

のちのスタン・ローレル
これはスタンレイ自らが「放浪紳士」役に、カルノ座の同僚だったコメディアンとコメディエンヌをそれぞれキーストン社の人気者チャスター・コンクリンとメーベル・ノーマンドそっくりに見立て、舞台で寸劇を演じていたとされます。事実ならば、映画界で大活躍の元同僚チャップリンに対しての、相当なジェラシーと焦りが感じられますねぇ。
このように多く存在する「パチ放浪紳士」に対して、チャップリンは1928年までに多くの訴訟を起こし、その撲滅にかなりの労力を費やしますが、唯一どうにも太刀打ちできない「放浪紳士」も存在しました。

「山高帽、チョビ髭、竹のステッキ、ダブダブのズボン、小さな上着、ドタ靴のキャラクターは吾輩が考案したもの」と豪語して、チャップリンが映画デビューを果たした1914年に登場したのは、フレッド・カルノ座の先輩芸人であるビリー・リッチー(本名ウィリアム・ヒル、1878~1921)というスコットランド人です。
チャップリン(大正期の表記ではチャプリン)が日本で「アルコール先生」と命名されたのに対して、リッチー(大正期の表記ではリッチ)は「ウイスキー先生」と紹介されていたので、大正の映画館では既に両者の作品が正式に公開され、活動寫眞辯士も明確に区別していたと想像できます。
伝説によれば、リッチーはチャップリンより小柄ながらも靴のサイズが大きく、衣装を譲り受けたチャップリンは、靴が脱げないよう左右逆に履いたことから有名なヨチヨチ歩きが誕生したとされます。
(キーストン社の先輩コメディアン、フォード・スターリングよりドタ靴を譲り受けた際、デカ過ぎて左右逆に履いたという説もあります)
リッチーは、チャップリンのデビュー作『成功爭ひ(Making a Living)』、そして「放浪紳士」のスクリーン初登場となる『ベニスにおけるベビーカー競争』を監督したヘンリー・パテ・レアマン(1886~1946)が、セネットと訣別して1914年に設立したL-KO(レアマン・ノックアウト)社から、「宗家・放浪紳士」として売り出されました。
フォックス社へ移籍後も「吾輩こそがホンモノ」、「かの扮装は1887年の『Mumming Birds(唖鳥)』初演で、吾輩が考案したのでござる」と、チャップリンに対して訴訟を起こした人物で、このような事情から、ある期間に同一キャラクターが二人、公式にスクリーンで活躍していました。
先行して映画デビューを果たしたチャップリンが、週給1,250ドルでキーストン社からエッサネイ社に引き抜かれた1915年、リッチーはユニバーサル社の資本に支えられ週給8,000ドルとなって(チャップリンの人気が多分に影響していたことは想像できますけど)、すぐにチャップリンも週給10,000ドル(当時の映画スターとしては最高額)でミューチュアル社へ移籍となった経緯もあります。

経年劣化によって紙質がボロボロ、触ると崩れてしまう…
当時のチャップリンとリッチーを比較すると、まだペーソスを確立していないころのチャップリンは、粗野で好戦的な道化師(自らが事件を巻き起こすボケ型)ですが、リッチーは(パテ・レアマンの好みも反映されていたと考えられ)一段とドタバタ色の濃い、アグレッシヴなコメディアンでした。
しかし、この過激なキャラクター性が災いして、1919年の撮影中、リッチーはダチョウに乗ったところ振り落とされたうえ襲われ、脊髄を損傷して「放浪紳士」主演作品を断念、以降はパテ・レアマンが次に獲得したスターのロイド・ハミルトン(本名ロイド・ヴァーノン・ハミルトン、1891~1935)の喜劇で、往時の「放浪紳士」とは誰もが気づかないような脇役に回り、やがて怪我の悪化から半身不随に陥り、本家本元「放浪紳士」係争も決着を見ないまま、1921年7月6日に帰らぬ人となりました(胃癌で亡くなった説もあります)。
この後、チャップリンはフレッド・カルノ座の同僚だった旧知のコメディエンヌで、リッチーの未亡人ウィニフレッド(本名フランシス・フィービ-・カービー、1879~1975)をチャップリン・スタジオの「放浪紳士」専任衣装担当として、山高帽、チョビ髭、ダブダブのズボン、小さな上着、ドタ靴のキャラクターで最後に出演の『独裁者』まで起用、リッチーの娘ウィンをスタジオ専属のエキストラに雇用するという懐柔策で、リッチーとの「放浪紳士」紛争を収束させました。
因みに、リッチーが最初に「放浪紳士」を発案したとされる舞台『唖鳥』は、初のアメリカ公演にてスタン・ローレル(当時は本名のスタンレイ・ジェファーソン)がリッチーの代演をしたという説もあります。
また、1921年から映画界を震撼させた「ロスコー・アーバックル強姦殺人事件」の被害者ヴァージニア・ラップ(本来の英語発音はラペェ、本名ヴァージニア・ラパエ、1891~1921)は、リッチー作品のヒロインを演じていて、パテ・レアマン監督のフィアンセでもありました。この状況を鑑みてか、バスター・キートンを筆頭にアーバックルを擁護する映画人と、騒ぎを煽動するマスコミや悪意に満ちた証言者のどちらに対しても、チャップリンは沈黙を貫いていました。

『ベニスにおけるベビーカー競争』より
さて、私見でリッチーの印象ですが、チャップリンよりも小柄に見えず、演技もデリカシーを欠いた、かなりガサツなオヤヂの印象を受けました。やはり「放浪紳士」を演ずる幾多のコメディアンで、ダンセール・ノーブルのごときチャップリンの流麗な所作まで真似できる役者はそうそういないのだろうと思います。
(互角に渡り合えるとしたら、元同僚のスタン・ローレルかなぁ)
いずれにしても、1920年代以降のチャップリンの芸術的な躍進に圧倒されて、今日ではリッチーも世間から完全に忘れ去られているのは事実です。稀にその名が紹介される場合も、大抵は「偽チャップリン」のひとりと目されていますが、近年では「放浪紳士の元祖はリッチー」説を支持する映画研究者も少なくありません。
ついでの紹介で(リッチー氏には申し訳ありませんが)、1918年のオランダの、ダヴィッド・ブエノ・デ・メスキータ(1889~1962)という画家で絵本作家の描いた漫画『Billie Ritchie en zijn ezel(ビリー・リッチーとロバ)』は、同国最初の著名人を題材にした創作だそうです。この話からすると、往時のリッチー人気はチャップリンと互角だったようにも感じられますねぇ。
面白い事に、リッチーを売り出したパテ・レアマンのL-KO社は、「東洋のチャーリー」ことチャイ・ホン(本名チャイ・ヨンホン、1882~1946)も売り出しました。

1919年 THE MOVING PICTURE WORLDに掲載された写真
初期作品にて、ホン演じるチャーリー(!)を脅かす巨漢役は、1910年代にヴァイタグラフ社で主演喜劇を発表していたヒューイ・マック(本名ヒュー・マクガワン、1884~1927)やオリバー・ハーディが起用され、監督はアルフ・グールディング(本名アルフレッド・ジョン・グールディング、1885 ~1972)が数作品を担当していました。

『How Fatty Made Good(デブはいかにしてうまくやるか)』1915年より
ここで本題から逸れますが、グールディングはこの後にハル・ローチ・スタジオズへ移って、新しいキャラクターを模索中のハロルド・ロイドに眼鏡着用を提案し、数々のヒットを飛ばして、1920年代にはマック・セネット・コメディズへ移籍してからは多くの作品で監修までも務めました。当にコメディの鬼才です。
話をホンに戻しますと、チャーリー(!)名義で主演したフィルムは既にほとんどが失われていて、正式に何本作られたか不明ですが、ホンは早々に役者を引退して、ハリウッドの伊達男ルー・コディ(本名ルイー・ジョゼフ・コテ、1884~1934)の従者となりました。そして、コディの死後にニューヨーク市へ移り住んで「チェスター・ホン」に改名しました。
ホンは映画デビュー以前の経歴が不明で、長い間、中国人とされていましたが、第二次世界大戦を迎えてアメリカ軍へ入隊した時に提出した兵役の登録簿から、中国生まれではなく朝鮮梁山郡(現在の韓国梁山市)出身と判明、現在では幻の韓国人スターとされています。
さて、いよいよ最後になりますが、「放浪紳士」の亜流としてデビュー、のちに大成した人物、ハロルド・ロイド(本名、ハロルド・クレイトン・ロイド、1893~1971)を紹介しましょう。
ロイドは、マック・セネットと並び称されるハリウッドの大プロデューサー、ハル・ローチ(本名ハロルド・ユージン・ローチ、1892~1992)共々、波瀾万丈な職業を経て、1912 年にユニバーサル社のJ・ ウォーレン・ケリガン(本名ジョージ・ウォーレン・ケリガン1879~1947)が監督・主演する西部劇で互いにエキストラの職を得て、運命的な出会いを果たします。そして、意気投合したローチとロイドは、1915 年に喜劇の自主製作に乗り出します。ファン・フィルムス(Phun Philms)という製作会社名義でローチ監督、ロイド主演の「ウィリー・ワーク」「ウィル・E・ワーク」「ピート」というチャップリンを模したキャラクターで6 作品を発表しますが、結果は振るわず、早くも資金難に陥りました。しかし、すぐにローチが共同出資者を得てロリン・フィルムズ(Rolin Films)を設立し、「ウィリー・ワーク」作品の『Just Nuts』をパテ・エクスチェンジ社へ持ち込んで配給契約を勝ち取ると、今度は「ロンサム・リュ-ク」という新キャラクターで再起を図りました。この「ロンサム・リューク」もまたチャップリンの亜流ですが、衣装はチャップリンのダブダブに対し、あえて身体に密着したピチピチのサイズを選ぶなど「チャップリンの逆」を意識しました。これが予想外のヒットとなり、以後67 作品も作られます(この作品数と経緯も諸説あり)。

デビュー当初の「ウィリー・ワーク」は、この宣伝写真をご覧になればおわかりになるでしょう、山高帽でなく中折れ帽、竹ではなく棍棒みたいなステッキ、チョビ髭ではなく伸びた鼻毛みたいな二本線です。チャップリンのしかめっ面を真似た表情まで見せていますねぇ。
この当時のロイドの演技は、ヴォードヴィルの舞台で研鑽を積んだチャップリンの洗練されたパントマイムに比べれば素人同然、粗野で暴力的でした。しかし、それを補って余りある若さと爆発的なエネルギー、そして次々と繰り出されるテンポの良いアイデアで、面白さにおいてチャップリンと互角に渡り合えるほどのポテンシャルを秘めていました。
1917 年にロイドは「ロンサム・リューク」と並行して、のちに「ロイド眼鏡」の語源となる新キャラクターを創案します。それは数多のコメディアンがひしめき合う中で、百凡の一人として埋没する事に危機感を抱いたローチとロイドが、喜劇の本質を徹底的に研究した結果、道化師特有のグロテスクな表情や珍妙な扮装をすべて排除した、飛躍やナンセンス、大袈裟なジェスチャーに頼らない、何の変哲もない「一般人」が主人公となる喜劇でした。
これは自らボケる道化劇ではなく、緻密な状況設定の中で受動的に笑いを生む形式、すなわち現代の映画やドラマの主流である《シチュエーション・コメディ》として完成しました。こうしてチャップリンの亜流とは永遠におさらばとなった訳です。
尚、「ウィリー・ワーク」から「ロンサム・リューク」に到る全作品の原版フィルムをロイド自身が買い取って自宅で保管していたところ、火災が起きて全て焼失、現在は1920年代に市場へ出回った家庭用フィルム(富裕層向けの9.5ミリや16ミリの鑑賞用ソフト)を基に復元された、僅か数作品だけが再見可能な状況です。
【彷徨する偽チャップリン】
マック・セネットの話によれば、20世紀初頭は、全米で毎週六千館の劇場がオープンしていたそうで、映画はいくら作っても供給が間に合わない状況だったとの事。1910年代後半になっても、エジソンによる権利闘争でフィルム供給や興行が流動的なため、ズブの素人が初めて撮影した映画でも一応の買い手はついたようでした。こうした事情から、自主製作のロイド初主演「ウィリー・ワーク」も興行が成り立った訳です。
それが超人気のチャップリン作品ともなれば、正規の配給元から取り次ぎ店を経て契約先のきちんとした劇場へ持ち込まれるので、プリント本数は限られ、新規参入の映画館や未契約の劇場にはフィルムが卸される事はありませんでした。そこが偽チャップリンたちの狙い処となり、やがてローカル・マーケットや巡回上映などにもパチモン映画が溢れ返りました。
1920年代後半になると、富裕層向けの家庭用フィルムが販売され、ここにも本物チャップリンと間違われたパチモンが出回りました。チャップリンのフィルモグラフィなどが整備される以前の時代でしたので、フィルムを購入した人のうち、何人くらいが玉石混交に気づいたでしょうか…
物好きの僕は、もはや再見不可能なチャールズ・アマドゥアーやレイ・ヒューズみたいな「パチャップリン」が、こういった家庭用フィルムの中古品から発掘されるとイイなぁと思っています。
以上、チャップリンの人気と偽チャップリンについて、もう少しサラっと書くつもりが、ついついヒートアップしちゃいまして、カルトな領域にまで踏み込んでしまいました。大変に失礼しました。
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- 本稿は、一般社団法人京都映画芸術文化研究所が年一回発行する紀要の第12号『サイレント・コメディ映画研究 知られざる喜劇ヒストリー』に寄稿した「チャップリン狂時代」を補筆改訂したものです。