喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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第二六話 喜劇映画研究会の復活

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復活した喜劇映画研究会の手作りパンフ。
両面コピーで冊子みたいになったので、1979年の頃より完成度が上がったかも。


 1985年3月13日の火曜日、六年ぶりに恵比寿のスペース50を借りた。目的は喜劇映画研究会の上映会を開くためだ。

 かつて小林君や僕がお世話になった管理人のオジサンは退職されていて、オーナーも変わっていた。入場料は定員の50席が埋まるとは考えられないけど、とりあえず我々にとって会場レンタル費の負担に少しは補填できるであろうという計算で、500円を設定してみた(六年前と変わらぬ料金、予約や前売りナシだ)。

 喜劇映画研究会は、チャップリン『巴里の女性』、マルクス兄弟『ラブ・ハッピー』『マルクス捕物帖』、ハリー・ラングドンやベン・ターピン等、小林君が戦後初公開や本邦初公開を謳ってきたので、僕の企画『キートンのカメラマン』は活動再開のプログラムとしてはピッタリだろうと悦に浸っていた…ちっぽけな自己満足だけどね。

 それより何より、ちゃんとお客さんが来てくれるかどうかだ。心配するのは前章で述べた通り、世はバブル絶頂期で街には娯楽や誘惑が溢れている。以前に古典映画を楽しんでくれた常連さんでも、1979年以来、六年もブランクを経て連絡すらしてなければ、改めて興味を示してくれるとは考えられない。まぁ、色々と不安はあるけど、まずは小林君に喜劇映画研究会の復活第一弾を見届けて貰おうと考えていた。

 

 開催が平日となったのは、土・日だと会場レンタル費が倍になるからだ(でも会場側のスケジュールも立て込んで、土・日は空いてなかった)。それでも小林君とは久々に会えるからと期待してたけど、彼は既に『有頂天』のケラとなって超人気者、直前でやはり来られなくなっちゃった。おまけに、僕は勤務先で下っ端のため、僕のプライベートの時間を占有できると勘違いしている先輩方が多くて、なかなか帰してくれんのだ! 僕まで不在じゃシャレにならない!

 それで急遽、ニュー・キーストンの仲間(多田、ター、ゲバフ、X=彼は大事件の主犯で直前まで服役していた!)が集結して、運営を助けてくれた。多田君だけは、喜劇研究会と喜劇映画研究会の正規メンバーだったし、恵比寿が地元だから参加は責務(?)だけど、みんな数年ぶりに顔を合わせて《上映会》を楽しんだようだ。

 僕がようやく21時頃に到着すると、受付でター、ゲバフ、Xが「入場時にカウントされてない人がいるみたいで金額が合わないから、連立方程式で計算し直している」と嬉しそうに騒いでいた。

 「中に声が聞えちゃうよ」と僕が小声で注意すると、場内からそんな心配をブチ壊すくらいの大爆笑が漏れて、コチラ側の話が聞えないではないか!

 「え? どのくらい入ってんの?」

 「70~80はいますよ。計算中」

 「立ち見でギューギュー、扉が閉まらないくらい。だから、スクリーンの下にも人がしゃがんでますよ」

 「それで多田のクサイ息が映写機の排熱と一緒にコッチへ流れてくるもんだから…もう死ぬかと思った」

 映写を担当している多田君が「先輩、入れなかったお客さんもいるみたいだから、もう一回くらい上映を組んでもイイんじゃないスか?」と口臭を漂わせながら興奮していた。

 そこへちょうど、雰囲気の妖しい青年が「責任者はいますか?」とフラフラやって来た。僕が責任者だと告げると…

 「ボクが来た時にはもう始まって入れない。最初からやり直しなさい!」

 「は? それはできません」

 「ボク見てないの、最初からやり直しなさい!」

 言葉が通じない人のようで、リフみたいな押し問答が続いたけど、しょうど終演後のお客さんがドッと溢れ出たので、「では近いうちに…」とその青年を人の波に押し込んで強引に退場させた。けど、今度は真面目に「次はいつですか?」「またやりますか?」という質問が後方からドンドン聞こえてくる。場内に残っているお客さんが多く、かなり昂揚している様子だ。この時点でも会場の定員数50名くらいはそのままのように見えて、どうもこの一回限りの復活上映会では治まらない雰囲気だ。  

 咄嗟にゲバフが持参したノートから1ページちぎって、急拵えの芳名帳にしてみた。

 「次回以降のご案内を郵送したく存じます。よろしければお名前とご住所をお書き下さい!」と僕は大声で呼びかけた。すると、記帳のための列が行儀よく階下まで続くじゃないか!自主上映でこんな光景を見た事ない!

 

 この芳名帳(紙っぺら)は喜劇映画研究会の至宝として、今も大切に保管されている。現在は国立映画アーカイブの事業企画室長となられた冨田美香女史、映画評論家の村山匡一郎氏など、もう、そう易々とお相手して頂けないような雲上の方々が、自らお名前を書かれているのだ!

 喜劇映画研究会という趣味のサークルは、バブル景気のインチキ臭い輝きの中で埋もれていると思っていたけど、ご理解ある方々にとても暖かく迎えて貰えたんだなぁ、贅沢な復活だったなぁと感激した。

 

 その後(記録が散逸してもうわからないけど)同年の秋か冬に、恵比寿のスペース50から六本木のクリエイティブ・スペースOM(オム)に会場を移して、多田君とターとXで「喜劇映画研究会『キートンのカメラマン』再上映」を開催(またしても僕と小林君は欠席のため)。

 そして年が明けてからは、小林君が完全に『有頂天』のケラ、または『劇団健康』の演出家ケラリーノ・サンドロヴィッチという立場で多忙を極めているので、僕が喜劇映画研究会を継承して「戦後初公開」や「本邦初公開」というキャッチコピーを意地で貫き通した。『コメディ・パニック』というシリーズ企画で、『バスター・キートンvs. ハロルド・ロイド』『マック・セネットvs. ハル・ローチ』『ヨーロッパ最初期のコメディアン』『初期トーキーのコメディ』などを開催した。

 

 小林君が1976年に中学校の文化祭で上映会を始めてから、1985年に僕が六本木のクリエイティブ・スペースOMヘと会場を移すまで、僕はこの期間を喜劇映画研究会の創世記だと思っている。