初対面でA氏から貰った海外カタログ。
ブーチャードのカタログは劣化が激しくて処分した…
番外編も含め、ここまで書いて、ほとんど女っ気のない話ばかりだったので、僕が同性愛者か独身のヘンタイと思われて不思議はないかも。
一応の弁明をすると(自慢じゃないけど)、女の子にはかなり人気があった。本稿の始まる1978年にはちゃんとカノジョもいたし、ガール・フレンドも多かったんだ。でも、当時の流行や同世代の趣味を考慮すると、やはり僕の自主製作や古典映画探究なんて、他の惑星から来た侵略者の破壊工作みたいに思われていた。だから、この趣味を共有できるような女性だと、同世代の女の子たちからは「不思議ちゃん」と呼ばれて、変人か狂人か特別天然記念物か絶滅危惧種Ⅱ類のごとく保護観察されていたね。昭和50年代は、肩身の狭い、こんな風潮を強く感じたなぁ。
一般的な女の子に自主映画を作っていると話すと、大抵は「アタシも出たい!」と真面目に答えるんだけど、彼女たちの想像する《映画》とはハリウッド調の絢爛豪華なラブ・ロマンスであって、自宅の近所でテキトーに撮る超ビンボーなアマチュア画像にはドン引きするし、ましてや僕のドタバタ喜劇だと病的なくらい拒否反応を示していた。
古典映画も然り。彼女たちはアール・ヌーボーのガラス器やデザイン画に驚喜するくせ、時代の近い1920年代コメディは「オジンクサ~(ジジイ臭い)」と厭忌するのだ。だから僕は、レディの前ではあまり映画の話をしないように心掛けていた。そんな調子でいたら、いつの間にか誰に対しても、《古典映画》とか《自主製作》というテーマで実務的な相談を受けない限りは、この話題を避けるようになってしまった。なので、既に喜劇映画研究会なるグル-プの活動をご存知の人が、たまたま別の経緯で僕と知り合いになった場合は、必ずビックリしていたね。
「なぜ隠してたの?」
「アラノさんって、ただの大酒呑みで無趣味な人だと思っていた」
世はバブル景気の絶頂期、テニス、スキー、サーフィン、エアロビクス、六本木のディスコ、こじゃれたレストラン、不倫、ブランド品、高級車とか、トレンディ・ドラマみたいな会話以外が東京の言語には存在しないような頃、僕とA氏は吉祥寺で会った。この当時、オッサン(A氏)と青年(僕)のコンビが、オシャレな街の喫茶店で真っ昼間に向かい合っているなんて、地面師か金融屋がチンピラ土建屋をそそのかしている構図だ。まるで凶悪コンビが、老齢の地権者をどう脅すか企んでいるようなもんだ。ところがコンビの話題は「キートンのフィルム」について! 巷の風潮からすれば、この時点でおそらく日本の全人口の中でも唯一無二の、時代錯誤も甚だしい、異色の会話だったと断言できる!
初対面のA氏は、恰幅が良く、濃紺のスーツでキチっとネクタイを締めて、髪をオールバックに固めていたので、いかにもバブル期の不動産屋か大手建築会社の社員ってな印象だった(この時は実際に建築関係の会社に勤めていたそうな)。
言葉遣いは丁寧だけど、モジモジと囁くような声で喋り始めに必ずドモるので、まるで見かけとイメージの違う、気弱な人だなぁと感じた。とにかく喫茶店内のBGMでA氏の声がよく聞こえない。
「ア、アラノさん、お、音楽がちょっと大きいですね。ボ、ボリューム下げて貰うように頼んでみますね」とA氏は状況を察したように立ち上がった。
僕らのいる席は店の奥で、エントランス側にレジとケーキの陳列ケースがあったんだけど、A氏はそこに立つウェイトレスの方へノソノソと歩み寄った。
「音がうるせー!!!大事な話が聞こえねぇだろ!!!」
店の外まで轟くような声で、A氏は一瞬にして他の客まで黙らせてしまった。これでBGMも消されたので、さながらサイレント映画を試写している雰囲気だ。しかし、主役はA氏で助演が僕、このシチュエーションで周囲から冷ややかに注目を浴びている。もう勘弁願いたい。
「し、静かにな、なりましたねぇ。そ、それでキ、キートンですがね…」
この不気味な会合を僕は一生忘れない。今日まで続くA氏とのクサレ縁の始まりでもあるのだから。あの雄叫びは、A氏による号砲だったに違いない。
かくして、初対面のA氏からはいくつか学んだ。大変に重要な話と、どうでもイイ話だ。まず、フィルム・コレクター連盟は、A氏が代表になった故、あっさりブッ潰れたそうな。初対面の豹変ぶりで、これは何となく理解できた。
肝心の『キートンのカメラマン』等のフィルムについては、かなり実践を積んでいる人ならではの、とても貴重な話を授かった。フィルム・コレクター連盟の会報にも書かれてなかった内容だ。
「売ってくれる人は、アルゼンチンの大富豪でコレクターのエンリック・ブーチャードです」
「南米と聞いて、送金しても物が来ないなんてビビるかもしれませんけど、ニューヨークの人よりレスポンスが早く確実ですよ」
「この手の海外取り引きは、見積もり=支払い金額なので、値段を見て、高いから買うのヤメっていうのが通用しません」
「問い合わせた時点(見積もりを貰った時)で必ず買わなければ、次から取り引きが出来なくなります。ある程度の値引き交渉は応じてくれますけど」
「それで…アルゼンチンは猛烈にインフレが進んでいるので、見積もりが来たらスグ送金しないと、直後に値上げの再見積もりが届くかもしれませんよ」
「連絡があったら、すぐにFAXか速達で送金する旨をインボイスした方が無難です」
「値上げされる前に払えば、向こう(ブーチャード側)は仕方ないからと最初の提示額でフィルムを送ってくれます」
A氏の会話の内容は全て本当だった。あとで《値上げの見積もり》が届いたり、為替レートが急変したり等、僕も経験してわかった。アルゼンチンは、アメリカやイギリスのフィルム価格より三倍近く高かったけど、翌年は更にその四倍くらい跳ね上がったりもした!アメリカで1ドル程度のモノが15~40ドルってな具合で急上昇する。
因みに、ブーチャードの名はフィルム・コレクター連盟の会報や紀田順一郎氏の著作でも散見していたので知っていたけど、何回か直接連絡しているうちに公用語がスペイン語だけど、日常は仏語を使い、英語は苦手だと教えてくれた。Bouchardというスペルなので、この名前だとフランス系アルゼンチン人の海軍で英雄だった人と同じ姓(=ブッシャール)になる。スペイン系とイタリア系の人種が多く、フランス系は少数派の国なので、ひょっとすると映画コレクター氏のご先祖様は、かの海軍が誇る伝説の英雄だったかも。だから発音はエンリケ・ブッシャールだろう。1980年代前半で既に傘寿を迎えていたそうなので、今はもう天国にお住まいだ。21世紀の初め頃、ブッシャール氏の後継者(それともコレクションを買い受けた人?)が、アルゼンチンへ送った僕の手紙に対して、ニューヨークからFAXで返答をくれて、ブッシャール氏の逝去を知ったんだ。
それで本章を作成しながら懐かしく想って、当時の為替レートを調べていたら、今さらだけどもっと重大な事情を知ってしまった!僕がフィルムを買っていた頃、アルゼンチンはフォークランド紛争(マルビナス戦争)や軍政、独裁、チリとの交戦準備、左翼系テロの頻発、インフレ激化等、メチャメチャに国情不安定だったのだ。現像所もちゃんと稼動できない状況なのに…こんな時でも、よくぞ日本人の馬鹿ガキを相手に、懇切丁寧な態度で臨んでくれたもんだ!泣けてくる…
話を戻そう。A氏からの指導(?)で、遂に幻のフィルム『キートンのカメラマン』が手許に届いた。それも拍子抜けするほどアッサリと。
この時にふと思い出したのは,小林君の家で1979年にキートンの『セブン・チャンス』を鑑賞して以来、キートンは僕の頭から走り去ったまま、ずっと不在だった。そういえば、小林君も『カメラマン』は未知のモノなんだよなぁ。見たがるだろうなぁ。いや、小林君に限らず、見たい人はかなりいるんじゃないか? そう思うと居ても立っても居られなくなって、夜中に小林君へ電話をしてみた。
「『キートンのカメラマン』が手に入ったよ」
「マジで? どうですか?」
「本に書かれているような駄作じゃない。僕はすごく面白いと思う」
「見たい、見たい、ゼヒ見たいです」
「見たがる人は多いだろうから、久々に喜劇映画研究会をやる?」
「そうしましょう!」
こんなやりとりから、あっさりと喜劇映画研究会が復活した。