喜劇映画研究会代表・新野敏也による ドタバタ喜劇を地で行くような体験記♪
作品の感想は語れず 衒学的な論評もできない「コメディ」によって破綻した実生活を暴露する!?
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ローレル&ハーディ伝説 ② ~『僕たちのラストステージ』応援作戦その1

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蘇ったローレル&ハーディ『僕たちのラストステージ』の魅力

 2011年に大ヒットしたフランス映画『アーティスト』で感動した人は、この『僕たちのラストステージ』でもっと大きな衝撃を受けるに違いありません。

『アーティスト』は映画用に作られたフィクションですが、『僕たちのラストステージ』は実話なうえ、映画界の確執や個人の感情がもっとディープに、もっと丹念に描かれているからです。

 時代背景も『アーティスト』と同じ頃になりますけど、街並み、セット、小道具などの凝りようがこれまたもう、歴史考証がまるでケタ違い!壮麗な仕上がり!同年代に思慕の念を抱くウディ・アレン監督も到達不可能な出来栄えです!1930年代の衣装やデザインに関心のある人は、オープニングから煌めく伝統と格式に狂喜するでしょう。これぞホンモノと思う筈です!

 

全編を貫くプライドと情念!

『僕たちのラストステージ』のテーマ、そしてツボは、やはりローレルとハーディという二人の男による《コンビであること》への深い想いでしょう。

 長くコンビを続けて世界的な評価を獲得した二人にとっての愛憎、友情、嫉妬、周囲の期待、時間の移ろいなど、ローレルとハーディの距離感がポイントです。特にバンドや演劇活動で仲間たちと行動している人は、絶対にグッとくる筈!(当然ながら、お独りで見てもスゴク感激しますけど)

 この映画の中では描かれておりませんが、何よりもこのコンビが偉大なのは、世の中で初めて《ボケとツッコミ》を演じたことなのです!僕は、そのコンビの重責が『僕たちのラストステージ』の中に溢れていると感じました。

 

 さてさて、それではローレル&ハーディの誕生について詳しくご紹介しようと思いますが、ドッサリ長文になりますので、どうかこのコンビ同様に根気よくお付き合い下さい。

 

ローレル&ハーディが登場するまでのプチ映画史

 19世紀末のフランスでリュミエール兄弟によって世界で初めてスクリーン投映式《映画》が発明されました。そして、その時には既に上映作品=エンタテインメント=喜劇という発想があったとされます。

 リュミエールの発明した機材に魅了された実業家のレオン・ゴーモン、シャルル・パテ、劇場主で奇術師のジョルジュ・メリエスらは即座に購入を申し入れますが、彼らはリュミエール兄弟にことごとく断わられてしまいました。そこで一念発起したパテ、ゴーモン、メリエスらは、それぞれ試行錯誤を繰り返した結果、今日まで続く映画産業の礎を築きます。

 パテとゴーモンは互いに競合することで、映画製作の効率的なスタッフ編成を構築しました。映画作品を舞台演劇や歌劇等と同質の娯楽として昇華させ、完成した作品を各地へ配給し、興行システムを生み出したのです。一方のメリエスは、撮影(トリック)や編集(場面転換や時間経過)といった新技術を編み出し、映画というメディアにおける表現の可能性を拡大します。

 

 こうして20世紀初頭にはゴーモン、パテ、メリエスら独自の創作によって《映画》が《産業》へと急成長しますが、当時の観客の求める作品はやはり《喜劇》だったことで、映画の世界的な輸出国に発展していたフランス(そしてイタリア)から数多くの傑作喜劇が創出されるに到りました。その大半は、道化師の文化と伝統を誇るヨーロッパならではのドタバタ喜劇でした。

 

 ほぼ同時期にアメリカで《映画》の技術を発明したエジソン、そして新興ビジネスとして目をつけた実業家たちも上映コンテンツの重要性に気づきはじめ、商圏拡張の熾烈な争いを展開します。但し、当時のアメリカのマーケットは貧しい移民や無学な若年労働者に支えられていたこともあって、自国の作風は道徳教育や西洋文化の啓蒙など、ドメスティックな寸劇がほとんどとなっておりました。いわばドタバタ喜劇はヨーロッパのお家芸として輸入に頼り、アメリカ製はホームドラマ風コメディみたいに、暗黙の棲み分けがなされていた訳です。

 

 そんなアメリカ映画界にマック・セネットという人物が彗星のごとく現われ、ヨーロッパ調のドタバタ劇にヴォードヴィル仕込みの《お色気》、20世紀初頭の潮流である《モータリゼーション》、移民や下層労働者のカタルシス《権力の罵倒》を加味した喜劇映画を発表、映像娯楽の新機軸を確立します。

 そしてセネットの創作した喜劇からは、世界初のアイドル女優となるメーベル・ノーマンド、肥満体を示す日本語「デブ」の語源となるロスコー・アーバックル、歴史上の偉人となるチャーリー・チャップリンが登場します。

 

 ちょうど同じ頃にヨーロッパ大陸では第一次世界大戦が勃発、次いでロシア革命が起きて、欧州経済は大混乱に陥ります。こんな情勢からフランス・イタリアの映画産業は凋落して、作品の主要輸出国の座をアメリカに奪われてしまいます。その結果、地球規模で全スクリーンの90%近くをアメリカ製の映画が占めるという展開に!しかもその上映作品のうち何と70%が喜劇!すると大ヒット連発のマック・セネットの作風が、映画業界ではコメディ製作のグローバル・スタンダードとなりました。

 

 かくしてアメリカ映画界の全映画会社が喜劇専門の製作チームを有し、競ってサーカスやヴォードヴィルからの人材発掘を行ない、新作を発表する訳ですが、そんな製作競争の超激戦区(ハリウッド)へ、若きハル・ローチ、スタン・ローレル、オリバー・ハーディという男たちが各々の夢と情熱を賭けてやって来ます。約15年後に運命的なチーム結成があるとは互いにまったく気づかないまま、彼らは新天地ハリウッドへ個別に足を踏み入れます…

 

 ここで、まずはローレル&ハーディの二人を育てた大プロデューサーのハル・ローチをご紹介しましょう。プロフィールを拙著から引用させて頂きます。

 

ローレル&ハーディを育てた男ハル・ローチ

―――以下、作品社・刊「〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る」p.401の「銀幕喜劇人小事典」より転載。

ハル・ローチ(Hal Roach 生歿年:1892~1992)ニューヨーク州エルミラ出身、本名はハロルド・ユージン・ローチ。今世紀までも絶大な影響力を誇ったハリウッドの超大物プロデューサー、監督。セネットとは同じアイリッシュの血が流れる人物ながらも交流は一切なく、セネットの人生における最強最大のライバルであった。ローチは盟友ハロルド・ロイドと共に1913年よりユニバーサル社のエキストラとして映画界へ足を踏み入れ、キーストン社=チャップリンの世界的な成功を目の当たりにしてから、チャップリンの亜流喜劇をロイド主演で「ウィリー・ワーク」、次いで「ロンサム・リューク」シリーズとして自主製作し始めるが、セネットの後塵を拝することへの不満から、セネット喜劇を論理的に分析し、1921年に逆説的な発想の喜劇『落胆無用(Never Weaken)』を創出して大成功を収めた。商才にも長け、セネットの人望とは正反対の経営手腕でハリウッドの大統領的な存在に登りつめたことが、映画を美学で論ずる人々よりローチが敬遠される理由のひとつとなっている。1937年にイタリアの元首ベニト・ムッソリーニがチネチッタ(映画都市=イタリア映画の中枢的なスタジオ郡)を建立した際、芸術的発展を目的に次男ビットリオをハリウッドへ送り込み、ローチと共同経営の会社RAM(ローチ・アンド・ムッソリーニ社)設立を企てるも、すでに世界の敵と目されつつあったファシストとの提携に反対するMGM(ハル・ローチ・スタジオの配給元)らハリウッド大手各社の圧力によって、RAMは解消となった経緯がある。ちなみに、近年の研究では、ビットリオ・ムッソリーニの計画は、ナチ=ゲッベルスの国策宣伝映画とは違い、純粋に文芸や娯楽の佳作をハリウッドの有力プロデューサーと創造しようと考えていたことがわかった。1942年には、ハル・ローチ・スタジオがアメリカ陸軍航空隊第18空軍管轄の『FMPU=THE First Motion Picture Unit(首席映画製作班)」の専任となり、ローチは大佐に任命され、航空兵力の教育映画や解説アニメーションなど、約400作品を製作した。このときのスタッフやキャストには、ロナルド・レーガン(のちの大統領で、当時は陸軍中尉の若手役者)、ジェイムズ・スチュアート、ウィリアム・ホールデン、クラーク・ゲーブル、アラン・ラッド、ウィリアム・ワイラーなどがいた。1985年には、モノクロ映画のカラーレーション(コンピューター・グラフィックスの応用で、白黒画像をビデオ編集にてカラー化する技術、カラーリゼーションという呼称は誤り)をローレル&ハーディの旧作『極楽宝の山(Way Out West)』で世界に先駆けて発表し、映画ファンのみならず映像業界内でも、オリジナルを尊重する保守派と技術の進歩を擁護する革新派の論争を巻き起こした。このように、活動実績も喜劇一筋のセネットとは対照的なことが興味深い。尚、ローチによって見出された才能は、ハロルド・ロイド、ローレル&ハーディ、ちびっ子ギャング以外に、女優のジーン・ハーロー(生歿年:1911~1937)、監督のレオ・マッケリー(生歿年:1898~1969)、ジョージ・スティーブンス(生歿年:1904~1975)、フランク・タシュリン(生歿年:1913~1972)がいる。蛇足ながら、1992年の第42回ベルリン国際映画祭にて、ベルリナーレ・カメラ(特別功労賞)の授与が決まり、『Homage to HAL ROACH』という特集企画が組まれた際、百歳のローチ翁が挨拶に登壇して会場は騒然となった。

〈喜劇映画〉を発明した男──帝王マック・セネット、自らを語る

〈喜劇映画〉を発明した男──帝王マック・セネット、自らを語る

 

  補足すると、チャーリー・チャップリン、ビング・クロスビー、フランク・キャプラ、ダリル・F・ザナックを発掘した大プロデューサーにして「娯楽映画のパイオニア」「喜劇の神様」と崇められているマック・セネットが、生涯を通して最も恐れていた人物こそハル・ローチでした。

 セネットが発展させた喜劇は《スラップスティック・コメディ》という、通称ドタバタ喜劇で、これは例えばバナナの皮でスッ転ぶ動作=道化師が派手なアクロバットで転ぶ《技芸》をワンカットで見せることによって客観的な笑いを想起させるものです(いわゆる一発芸だと思っていて下さい)。

 対するローチが発展させたのは《シチュエーション・コメディ》、直訳のとおり状況喜劇という笑わせ方で、《バナナの皮が存在する理由》《バナナの皮があったことによって一般市民がどのような被害に陥るか》を緻密な構成とカメラワークによって主観的に見せる(主人公に感情移入させる)=バナナの皮と被害者との因果関係で笑いを起こすもの(スッ転ぶ動作は笑いの二次的要素でしかない)です。

 つまりは、《スラップスティック・コメディ》とは能動的にボケを演じる事件発生型、《シチュエーション・コメディ》とはトラブル等に巻き込まれるタイプの受動的な苦難型(もしくは事件解決型)となります。

 この《受動的な苦難型》は過剰に感情移入を誘うと「悲劇」になってしまうため、「喜劇」を成立させる条件として《他人事》にも見えるよう、客観的に笑い飛ばすファクターも必要となります。とても難しい表現ですが、多彩なカメラ・アングルによって主観と客観をうまく切り替えたり、編集によって主人公の観点を変えたりと、直感的で一発芸的な笑いにはない《映像(各カット)の連続による状況説明》で笑いを成立させる、つまり《事実関係・状況証拠こそが笑いの因子》《キャラクターが笑わすのではなく、演出が笑わせる》となる訳です。

 

 ローチは、この《シチュエーション・コメディ》を1919年から盟友のハロルド・ロイドと共に試行錯誤を繰り返し(『目が廻る』『下を見ろ』『落胆無用』という作品で、一般的な青年がハラハラドキドキの事件に巻き込まれる展開)、1923年発表の『要心無用』で絶対的なフォームを確立しました。

 ここでまたまた拙著から引用させて頂きますが…

 

―――以下、作品社・刊「〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る」p.210の第十四章の註釈1を転載。

ロイドは盟友ハル・ローチと共にキーストン社=チャップリンの亜流喜劇を自主製作するが、セネットの後塵を拝することへの焦慮から、笑いの起こるべき状況を論理的に分析し、徹底した道化劇の排除と、映画的文法による緻密な構成を発案して大成功を収めた。これは、日常的に起きる笑いの要素を積み重ねてストーリーを構築するシチュエーション・コメディ(状況喜劇)であり、セネットの一発芸的なナンセンスがストーリーの推進力となるスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)とは対極にある。ローチの作風は、今日ほとんどの喜劇映画に踏襲されていると言っても過言ではない。

 

 もうちょっと補足しましょう。映画黎明期の1908年にD・W・グリフィスの助手としてキャリアをスタートさせた売れない舞台役者のセネットに対して、ローチは映画産業に憧れて1913年から無名のエキストラとして撮影所で働き始めたのでした。

 セネットが映画界に入った当時は、まだ製作者も興行主も、そして観客までもが映画という新興ジャンルを舞台(演劇)の延長上の表現、あるいは写真の別形態(実景の再現)と考えて、「珍奇なテクノロジー」「新しい見世物」という好奇心だけで迎えている状況でした。なので、演出や撮影で目新しい手法を使えば、すべてが発見や発明=革新的な表現と騒がれたのでした。

 この頃に撮影(被写体の強調、影による隠喩、動作の説明)、トリック(合成画面)、編集(時間の省略、倒置法)が、フランスのジョルジュ・メリエス、イギリスの映像製作者集団ブライトン派、アメリカのD・W・グリフィスによって次々と編み出された訳です。

 セネットはグリフィスから学んだ映像表現を更に発展させて、《移動撮影》や大衆が望むであろう《お色気》《権力の罵倒》《派手なアクション》を創案し、1912年の独立から《ヨーロッパ伝統の道化劇》を取り入れたスラップスティック・コメディで世界中の映画興行において《娯楽》という要素を独占します。そして、メーベル・ノーマンド、ロスコー・アーバックル、チャーリー・チャップリン、グロリア・スワンソンといったスーパースターを世に送り出したことから、「喜劇映画の規範はセネットにあり」「セネット流のドタバタこそが正調コメディ」みたいな一大潮流が沸き起こりました。

 こうした中、五年遅れで知識も経験もなく、実力差も歴然とした無名の青年ハル・ローチが、撮影所のエキストラとして映画界へ足を踏み入れました。ローチは撮影所で知り合ったハロルド・ロイドと共に、セネット=チャップリンのパチモン映画の製作を始めますが、挫折と低迷を痛感したことから徹底的にセネット作品を分析して、「もはや革新的な表現は存在しない」とされた喜劇映画を大改革します。

 これが先述の『要心無用』ですけど、本作の予想以上の世界的な成功はローチとロイドを収益配分で対立させ、遂には訣別という最悪な結果を招いてしまいました。

 この後にローチの許で《状況喜劇》の領域を守ったのは、かつてセネットのスタジオに在籍していた元ヴォードヴィリアンで、才能豊かなチャーリー・チェイス(監督としての活躍ではチャールズ・パロット名)でした。チャイスは『ちびっ子ギャング』発案者のひとりでもあって、実兄のコメディアンで監督のジェイムズ・パロット(役者名はポール・パロット)、新進気鋭の監督・脚本家レオ・マッケリー、その実弟レイ・マッケリーらと、またまたローチ喜劇の新機軸を模索します。その結果、チェイスの親友である名脇役オリバー・ハーディを《ツッコミ》役、既に主役で活躍していた道化役者のスタン・ローレルを《ボケ》役、そして以前よりローレル主演の喜劇で名敵役を演じていたジェイムズ・フィンレイスンをそのままコンビの敵役として迎える…といったチーム編成のプロットが考え出されました。かくして1927年に「僕たちのファーストステージ」と相成ります。

 

 ではローレル&ハーディご両人のプロフィールを拙著から引用します。

 

ローレル&ハーディとは何者…

―――以下、作品社・刊「〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る」p.387の「銀幕喜劇人小事典」より転載。

スタン・ローレル(Stan Laurel 生歿年:1890~1965)は、イギリスのランカシャー州アルヴァーストン(現在はカンブリア州に編入)出身、本名アーサー・スタンレイ・ジェファーソン。チャップリンと同門のカルノ座から映画界に転じたヴォードヴィリアンで、舞台での最初の芸名Stan Jeffersonが13文字で出世しないと言われたことからLaurel(勝利の月桂冠)を名乗った。オリバー・ハーディ(Oliver Hardy 生歿年:1892~1957)、本名オリバー・ノーベル・ハーディ・ジュニアは、ジョージア州ハーレムの弁護士の家庭に生まれ、幼年期の子役経験から夢が捨てきれずに法科大学を中退し、自ら巡業一座を主宰していた役者。二人はそれぞれ1910年代前半から映画に出演していたところ、ハル・ローチのアイデアで、内気でエキセントリックな痩せ男ローレル(ボケ)と、がさつでスノッブな巨漢ハーディ(ツッコミ)というコンビが1927年に結成され、まだ当時の映画界としてはタブーのホモセクシャルな雰囲気を漂わせ、シニカルでペシミスティックな展開と破壊的なギャグを武器に、無声映画期からトーキー、さらには世界恐慌のヒステリックな時代を代表するスーパースターとなった。ナチ政権下から冷戦時の東ドイツでは「退廃的な敵国映画」として上映が禁止されていたことから、近年のドイツでは伝説の英雄的コメディアンと崇められている。コンビ映画は23年間で約120作品(ゲスト出演含む)を発表して、無声映画期の作品からはレオ・マッケリーやジョージ・スティーブンスが巣立っている。ローレルとハーディの亡くなったあとも、彼らの大ファンであった絵本作家のモーリス・センダックによってオマージュ的な作品「まよなかのだいどころ」が発表され、ハンナ・バーベラ・プロダクションからは、1966年に子供向けアニメ版「ローレル&ハーディ」シリーズも作られた。

 

 更に加筆しますと、このコンビに憧れを抱き、影響を受けた作家はレイ・ブラッドベリ、カート・ヴォネガット、浜岡賢次、映画監督ではロマン・ポランスキー、ブレイク・エドワーズ、メル・ブルックス、ドミニク・アベル&フィオナ・ゴードン、ニック・パーク等々(何かのインタビューで読んだ気もしますが、確かイングマール・ベルイマンもファンのひとりだったような!?)、そして2015年にフランスのゴーモン社がアニメ版のリブートを行ないました。

 

ローレル&ハーディの生まれた時代

 コンビ誕生の1927年、映画界は文芸路線による大作化、長編化が主流となっておりました。既にチャップリン、キートン、ロイドといった喜劇人は、ストーリー重視の長編喜劇で大成功を収めていたのですが、旧来の無声映画が終焉を迎えつつある、トーキー映画が世に出始めた年でもあって、表現者やアーティストは安穏としていらない状況でもありました。

 こうした中でも、セネット、ローチ、そしてアル・クリスティ、ジャック・ホワイトといった喜劇プロデューサーらはプログラム・ピクチャーと呼ばれる上映形態の作品(いわゆる添え物的な短編)も精力的に量産し、まだまだ映画産業(あるいは国際的なマーケット)の大部分を握っておりました。

 その一方で、我が国は関東大震災後の経済不安定による金融恐慌にあえぎ、そして世界経済の中核となるアメリカは不動産暴落によって経済恐慌の前兆をチラホラ覗かせている状況…だったようです。

 こんなピリピリの時代背景を敏感に取り入れた、ヒステリックで破壊的な《喜劇の新機軸》が「ローレル&ハーディ」という形態で登場します。

 

 ということで、次回は《ボケとツッコミ》の歴史と形式について解説しましょう。